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#居場所と自己受容について

私の落ち着ける居場所はどこにあるんだろうか。
例えばそれを公共空間に求めることができないだろうか。目的なくただぼーっと思索にふける居場所が欲しい。

居場所って何だろう。

自分にとっての「居場所」を見つけるためには
①Giveすること=誰かの役に立つこと
②ダメさをさらけ出すこと=ありのままでいること
このふたつができる場所を探すといい。

①も②も満たす居場所への渇望。所属したくはないが居場所は欲しいって感じ。自分にとっての理想的な居場所は、やっぱり広くあまねく受容される空間かなあ。決して排他的でなくただ受け入れられる場所。昭和的表現でいうところの「スナック」というか。いや、ちょっと違うかな。そうそう、そもそも居場所を維持する存在も大切やなあと思います。「スナック」でいうところの「ママ」の存在。いつでも居心地の良い居場所を維持し続ける存在。とにもかくにもなんでも継続することってやっぱりすごいことやなあと改めて実感しました。

欲しい公共は自分でつくるっていうマイパブリックの概念は本当に目からウロコで、私が欲しい公共って、居場所って何だろうって妄想しだすと止まらない。

私が欲しい公共って、別に物理的空間でなくても実現できるかもしれん。極端な話、仮想空間、VRの世界でも良くて。でも、その場の空気感、匂いとか感触とかは今のところ仮想空間、バーチャルでは味わえない。

誰かの役に立ちたいということと、ありのままでいたいということ、これってどっちも「自己受容」がキーワードかなって思いました。

居場所が欲しいと思う私は、単に「自己受容」を渇望してて、居場所自体には拘らんのかもしれん。

「自己受容ができているかどうかの判別方法」
・「自分の脳はノイズが発生する脳である」ことに対してどう思うか?
・ノイズが発生している時、どう思っているか?
・「◯◯ができないのが、私なのだ」という自分像にどう思うか?

"自己受容の進捗度"の定点観測。私もノート書き殴ることでその進捗度測ってるかもしれん。なんかまとまらんけど、居場所が欲しい気持ちは自己受容への渇望なんかもしれんな。私の頭の中は常にノイズに溢れてます。

日々の些細なことを記録し留めるためにnoteを活用しています。