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【創作大賞2024 恋愛小説部門応募作】 「空の恋人」第七話 奇跡の薬

第六話◇ あらすじ・第一話 ◇第八話


 休日の午後、駅前で待ち合わせたきみと手を繋いで舗道を歩く。初夏の爽やかな風が、俺ときみを等しく撫でる。

 身長差が大きいので俺が歩幅を合わせようとすると、きみはわざとそれをずらしてみせたりする。つんのめりそうになる俺が文句を言うより先に、きみは鈴のような澄んだ声で楽しそうに笑う。その声は、俺から不機嫌を消し去ってしまう、まるで魔法だった。

 普段なかなか好きなファッションを謳歌できないきみと、ショッピングモールへ行く。ファストファッションストアで、きみはワンピースを何枚も試着した。

 どれがいい? と訊かれた俺は、迷うことなくペールブルーがいいと答えた。どうして? とさらに問うきみに、俺の好きな色だからと答えると、きみは顔を真っ赤にして試着室のカーテンを勢いよく閉めてしまった。

 そのあと、予約していたパンケーキが名物のカフェへ行った。きみは俺が予約までしていたことに驚いていたけど、そのおかげで半個室の席を用意してもらえた。周囲の物音やしゃべり声が軽減されるから、俺たちはのんびりと時を過ごすことができた。

 パンケーキは種類が豊富だった。俺がどれにしようかと尋ねると、きみはプレーンがいいと即答した。ベリーソースやチョコレートトッピング、カットフルーツ添えなどではなく、バターだけが載ったプレーンがいいと。

「これでいいの?」

 きみは首を小動物のように細かく縦に振った。

「だって、もしソースとかこぼしちゃったら、ワンピースが汚れちゃう……」

 きみは着替えたばかりのワンピースの袖を、そっと撫でた。

 パンケーキは評判通りの美味しさだった。

 それから、前からきみが気になっていたという話題の映画を観た。予告編でラブコメ作品だと思い込んでいたので、クライマックスでヒロインの盾となった主人公が命を落とすというまさかの展開に、俺は正直面食らった。衝撃的な結末というよりは、どこかチープな印象を受けてしまったのだ。

 上映後、席を立とうとした俺のシャツを、きみはしっかと掴んだ。なんときみは、「ぽろぽろ」というより「ぼろぼろ」というオノマトペがぴったりなくらい、号泣していたのだ。

 他の観客がすべて帰った後、アルバイトの大学生が清掃にやってくる束の間、俺たちはシアター内にふたりきりになった。

 きみは、涙に濡れた瞳で俺をまっすぐ見つめた。俺はたまらなくなって、きみのふわりとした髪に指を絡めた。これ以上進んではいけない。頭ではそうわかっていたけれど、このとき、想いは理性をとうに飛び越えていた。

 唇を離すと、きみは静謐な春の空に凛と響く鈴のような声で、「ありがとう」と微笑んだ。その声をいつまでも隣で聞いていたいし、俺のとなりにいる時のきみには、いつでも笑顔でいてほしい。息苦しささえ覚えながら、俺はそう強く願った。

 なんとなく恥ずかしくて、帰り道に互いに目を合わせることはほとんどなかった。きみに許可された門限が迫っていたこともあり、駅のトイレできみはペールブルーのワンピースからグレーのスウェットに着替えた。

 丁寧に畳んだワンピースを俺に預けると、きみはもう一度だけ、その黒い瞳を俺に向けた。

 俺たちは反対方面の電車に乗らなければならない。きみはあの場所に戻れば一人の入院患者に過ぎなくなるし、次に会うときは、俺はきみにこう呼ばれるのだ。

 「つつみ先生」

 職業倫理的にあり得ないことだし、専門職としての常識からも逸脱していたし、そもそも人倫にもとるということは他でもない俺自身が誰よりも理解していた。

 なにより、きみを傷つけてしまうことは火を見るより明らかだったのに、俺はどうしても、自分の気持ちを抑えることができなかった。

 その身勝手さと臆病さは、あっけなく俺自身に牙を剥いた。入院患者との交際など病院の歴史に残る汚点だったし、このことは尾鰭をつけて広がり、看護師たちの格好の噂話として消費され続けた。

「あの子が、夜勤の堤先生を誘惑しているのを見た」だの「普段から、あの子は診察のたびに堤先生に色目を使っていた」だの、根も葉もない話がまことしやかにささやかれた。結果、俺はもちろんのこと、きみも病院を追われた。

 晴也せいやはその後、とある大学の精神薬理学研究室に拾われた。彼女の両親は病院側に賠償どころか謝罪も要求しなかったと、後になって聞かされた。月本恭右つきもときょうすけという、研究室の教授からだった。

 月本恭右は、周囲の無関心に感謝すべきとも言った。晴也はなにも言葉を見つけられずにただ俯き、研究室の冷たい床を凝視することしかできなかった。

 臨床を離れた晴也は、建前上は創薬研究の分野で再スタートを切った。月本恭右はほうぼうに、こう喧伝した。

「彼はまだ若く、将来のある精神科医だ。今回のことで、病院に金銭的な損害が出たわけでもない。ネット上には好き勝手に叩く輩の書き込みが散見されるが、それらは全て、こちらが名誉毀損で訴える際の有効な素材になるだけだ。どうか、堤先生のことを寛大な心で見守ってやってほしい。彼には、やり直す権利と可能性があるのだから」

 ——あの子には? あの子には、やり直す権利も可能性もないのだろうか? 悪いのは、俺だったのに。

 けれども、月本恭右にそう言ったところで何か事態が好転するとはとても思えなかったし、それ以前にこのときの晴也には、そんな度胸など微塵もなかったのだった。

 それから数年が無為に経過し、梅雨明けを迎えた頃のことだ。月本研究室が「従来の概念を覆す」と意気込んだ、作用機序の斬新な最新の抗精神病薬「ランパトール」の薬事申請に向けた治験が臨床第Ⅲ相試験に突入した。これは、ヒトを対象とした有効性と安全性を最終確認するためにテストするフェーズで、「ランパトール」が多くの患者に投与されることを意味していた。

 月本恭右はキャッチコピーのように、繰り返し口にした。

「ランパトールは、人類が待ち望んだ奇跡の薬である」と。

 確かに、この薬の開発に月本研究室は何年もの時間と多額の金を費やしてきた。だが、ランパトールが「従来の概念を覆す」薬効を獲得したのは、晴也による研究の成果であった。しかしながら、晴也は相変わらず自分の手柄など主張できない立場に留め置かれていたから、すべてが月本恭右の功績とされた。

 治験モニターのリストに彼女の名前を見つけたときの晴也に、全く戸惑いがなかったと言えば嘘になる。しかし、喜びがそれに勝った。治験モニターには、厚生労働大臣の承認を得るまでの長い過程を待つことなくランパトールを投与できるからだ。

 数年ぶりに晴也の前の姿を見せた彼女は、逢瀬を重ねた当時とはほとんど別人だった。あの日、晴也が指を絡めた柔らかな髪はぼさぼさで、眉毛の手入れもされておらず、顔色は真っ青だった。かつて晴也と見つめ合った瞳は輝きを失い、うつろに視線を泳がせるばかりだったし、乾ききった唇はところどころ皮が剥けていた。

 それでも、晴也が絶望することはなかった。

 ――この薬さえ飲めば、きみはもう、大丈夫だ。

「ご協力いただくのは、『ランパトール』という名前の薬です。治験の目的は非常にシンプルです。皆さんには、幻聴や妄想といった陽性症状、感情鈍麻や意欲の減退といった陰性症状だけではなく、認知機能障害まで消滅させるというこれまでにない体験をしていただくのです。これまでの抗精神病薬は、寛解状態を維持するために、皆さんには長期にわたる、あるいは一生涯の服用が必要でした。しかし、このランパトールの画期的なところは、たった1回の服用で効果が期待できるところです。『寛解』ではありません。『完治』です。治験においては当然、不利益についてもお伝えする義務が我々にはあるのですが『残念ながら』、第Ⅱ相試験終了までにそれらは1つも報告されておりません」

 あくまで月本恭右のアシスタントとして、晴也は治験モニターたちへ向けて立て板に水のごとく説明した。

 その内容が真実ならば、漫然とした服薬や様々な副作用に苦しめられてきた患者たちにとって、ランパトールとは強烈な希望と恩恵に違いなかった。

「しかも、ランパトールの薬効は早発性です。治験が終わるころには、皆さんにもう精神症状は存在しないでしょう。さらに、再発の危険性もゼロになることまで期待されます。ですから、不自由な入院生活どころか煩わしい通院からも、皆さんは解放されるのです」

 晴也は、信じて疑わなかった。自分が行っていることは正しい。それだけではない、たくさんの人を「幻聴」や「妄想」などという病的な状態から救済することが可能となるのだ。

 ――やっと、きみを迎えに行くことができるよ。

 本来、治験に必要なはずの長期間使用時の有効性や安全性の検証プロセスが、この治験では存在しなかった。「比較すること」という科学の原則に背き、プラセボを用いた比較試験が行われることもなかった。治験に参加してくれさえすれば、対象者全員にランパトールが投与された。

 ランパトールのあまりにも革新的な効能とそれがもたらす莫大なベネフィット――例えば、患者が完治することで社会活動への参加が容易になり、経済的な損失が激減すること――に、目がくらんでいたのは、月本恭右だけではなかった。大手の製薬会社がランパトールに早々と目をつけ、月本研究室との連携協定を結んでいた。晴也のあずかり知らないところで、多くの思惑がうごめいていたのだった。

 晴也はただ、あの子と再びありふれた時間を一緒に過ごし、笑ったり泣いたりする日々を取り戻したかっただけだ。それが、晴也の唯一の願いだった。

 治験の初期段階にあたる臨床第I相試験の参加者が、ある日突然、自ら命を絶つ事例が頻発しているという報告を晴也が受けたのは、臨床第Ⅲ相試験の終了直後だった。

 既に、あの子の脳内ではランパトールの浸食が始まっていた。

▽第八話へつづく

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