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さいはてキッチン1 【シチュー】

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<1 シチュー>

少女はやや乱暴な所作で僕の作ったシチューをあっという間に平らげた。

「おなか空いてたの?」

僕がそう問いかけると、少女はスプーンを半ば叩きつけるように器に戻した。

「別に。出されたから食べただけ」

「そう」

アオがスプーンでにんじんをつつきながら、少女に向かって

「がさつ」

と言い放ったが、少女はその言葉を無視して、食卓テーブルに組んだ足を載せた。

「テーブルマナーなんて要る? 私、ただの食材なんだけど」

少女の瞳がじろっとアオに向けられたものだから、僕は慌てて話題を変えようとこんな質問をした。

「僕はケムリ。彼はアオ。きみ、名前は」

「『名前』って、識別子のこと?」

僕は少しだけ面食らったものの、すぐに気持ちを立て直して少女の問いに答えた。

「えっと。君だけが持ってる、君を示すためのラベル、みたいなものかな」

「ラベルね。それなら私にもある。私はずっと『ゼロイチ』って呼ばれてる」

「ずいぶん変わった名前だね」

「そうかな」

ゼロイチは両手を頭の後ろ手に組み、大きなあくびをした。

「おなかいっぱいになったら眠くなっちゃった」

「ベッドならいくらでも空いているよ。ここは昔、クリニックだったから」

「クリニック?」

ゼロイチの言葉に、僕はこの「クリニック」という単語が通じなくなって久しいことに気付かされた。

「クリニックってなに?」

僕は三人分の食器を片付けながら、うーん、と首を傾げた。

「人が病気になった時に、治療を受けるための場所」

ゼロイチはあからさまに不愉快そうな表情を浮かべた。

「難しい言葉ばかり使わないでよ」

「ケムリはいつもこうだよ」

アオが少女をけん制するように割って入った。

「昔の言葉をたくさん知ってるんだ。ケムリはなんでも」

「アオ。きみは相変わらずにんじんを残すね」

「色が怖い。味が合わない。口に含むと体が拒絶する」

「そういうのを『好き嫌い』っていうんだ」

「え、『嫌い』じゃないの?」

確かに、言われてみればおかしな言葉だ。アオはさっさと食卓を去ると、暖を取るために使用している簡易な煉瓦造りの炉の前に座り込んだ。

廃材をかき集めた割にはしっかりと乾いており、着火も持続も申し分ない。

ゼロイチといえば、僕たちとの会話に興味がないらしくテーブルにうつ伏せて細い両腕を枕がわりに居眠りを始めてしまった。

食器をひととおり片付け終えると、僕はかつてカルテを管理してあったであろう場所に所蔵してある大量のレコード盤の中から、「rain」を選んだ。アーティストの名前ではない。文字通り、雨の音が収録された一枚だ。

rainに針を落とすと、外には星々の支配する冷たい夜空が広がっているのに、この部屋だけは静謐と緩やかさを許されているかのようで、僕もまたソファに腰掛けてうたた寝しようと、腕組みして俯こうとした。

僕の安眠を阻害したのは、しかし破裂音でも爆破音でもなく、いつか聴いたクラシック音楽の軽やかに弾むピッコロのように楽しげな、小鳥の鳴き声だった。

それは自分につけられた名前を高らかに誇るように、何度も「ノイ、ノイ」と美しい声をあげる。

それはまるで、歓喜の声に僕には聞こえた。

「ノイ、うるさい」

アオが文句をつけるが、そんなことはお構いなしでノイは部屋中をリズミカルに跳び回り、「ノーイ」「ノーイ」と歌っている。

レコードはトラック2に入って、しとしとからざあざあとうなる音を響かせはじめた。

するとノイはアオの肩にとまり、金色の目を何度もぱちくりさせた。

「ノーイ……」

レコードに聴き入るその姿は、一種の懐古と祈りを僕に感じさせた。

僕ははたと気づいた。もしかしたら、もしかすると。……いや、確かなことかもしれない。

僕はそれが滑稽なことだとわかっていながら、ノイにこう語りかけた。

「ノイ、お前はもしかして、雨を知っているのかい?」

暖炉で揺らめく橙色の炎が、燃え朽ちていく木片をぱちんと鳴らした。

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