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【短編】ご縁があれば

 人は生を受けた瞬間から、終わりへと一方通行で向かう。夜空を彩る星々に比べたら、人間など本当にちっぽけな存在で、人ひとりの苦悩なんてきっと、些末なものなのだ。橋場詩織(はしばしおり)は本気で思っている、自分の人生なんて誰のかすり傷にもならなくて、ほんの刹那なのことなのだろう、だから自分はいつ死んだっていいのだ、と。
 こういった類の想いは、誰しもが一度は悩み囚われたことがあるかもしれない。主には十四歳付近に、必死に考えることなのかもしれない。多くの人はいわゆるその苦悩を、大人の階段を上ることで自然治癒させる。
 しかし詩織は三十路を控えたにもかかわらず、恋愛のひとつも経験せず、そこから抜け出せずに、いまだにぼーっと「生きる意味」について悩み続けていた。まるで、心にぽっかりと深い穴が開いているみたいに。
 朝起きて、なんとなく身支度をして、満員電車に揺られて出勤して、ランチはコンビニで済ませて、定時を少し過ぎたら退社して、家で動画やテレビを観て過ごして、寝たいときに寝る。一人暮らしなのでその生活を咎める者はいない。その繰り返しで、やはりなんとなく自分は歳をとって、いずれ終わっていくのだろう。そう思っていた。だからこそ、焦っていた。本当にこのままでいいのか。生きるってなんだ。何のために生きているのだ、と。

 ある日の仕事帰り、詩織はまた「生きる意味」について考えながら歩いていた。思えば今踏みしめている大地だって、連綿とした元・いのちなのだ。この下には、過ぎ去っていった人々の歴史や想いが敷き詰められている。それはきっと尊いことなのだろう。もっとも、今ではすっかりアスファルトに覆われてしまっているけれど。
「あっ!」
 足元から声がした、と思った時にはすでに詩織は、駅前の路上で男性が陳列していた絵画たちに体ごとダイブしていた。視界がひっくり返って、無様な格好で詩織はしばらく、暮れなずむ九月の空を見上げていた。
「……大丈夫ですか?」
 男性が驚いた様子でこちらに声をかけてくる。詩織はなんとか体制を整えると、「すみません」を連発して、
「大丈夫です。あの、そちらにお怪我は」
 ときいた。男性は少し困惑した顔をしながら、
「怪我はないですけど、絵が……」
 そう言うので、詩織は彼の指差す方を見た。するとそこには、無残に角がひしゃげた色紙が数枚、無残に転がっていた。男性はそれを拾い上げ、その角にそっと手を添えながら嘆いた。
「あぁ、残念」
「ごめんなさい!」
 詩織は土下座でもせんばかりの勢いで頭を下げた。しかし、謝ったところで色紙が元に戻るわけではない。男性は、怒るわけではないが、決して明るくない口調で呟いた。
「困ったなぁ」
 詩織は血の気が引くのを感じた。人の作品を、自分が台無しにしてしまったのだ。申し訳なさでいっぱいになった詩織は、その勢いで、
「弁償させてください」
 と口走ってしまった。しかし、すぐにしまった、と後悔した。まるで芸術作品の汚損をお金で解決しようとしているようにとられてもおかしくない。きっと、気を悪くするに違いない、と。
 ところが、男性はひらひら手を横に振って、
「いえ、描きなおせばいいので」
 と笑った。その笑顔があまりに柔らかいものだから、詩織はますます焦り、おぼつかない手つきでカバンの中の財布を探した。
「じゃあ、それ、買います……」
 男性は首を一回だけ横に振った。
「そちらにも怪我がなくてよかった。絵のことは気にしないでください」
「え、でも……」
「大丈夫ですから」
 詩織は何度も頭を下げて、散らかった色紙たちを回収した。絵は、風景画がほとんどだった。
 その男性と一緒に片付けをひと通り済ませると、詩織はまた頭を下げて、
「それでは、すみませんでした」
 とその場から去ろうと背を向けた。あまりの気まずさから一刻も早く逃げ出したかったのだ。
 しかし、男性はそれを引きとめた。今度こそ怒られる、詩織はそう思った。おそるおそる振り返ると、男性は角のひしゃげていない一枚の絵を差し出しながら、
「片付け、手伝ってくれてありがとうございます。これ、良かったらどうぞ」
 と微笑んだ。
 ……不思議な人だ、と詩織は思った。片付けなければならなかったのは、自分のせいだというのに。
 差し出された絵は、どこかの自然の風景だった。詩織は、絵はまるで素人だが、それでも青空と新緑のコントラストがきれいだと思った。彼女はすっかり恐縮して、
「こんな素敵な絵、いただいたらもったいないです」
 と断ったのだが、男性はいえいえ、と笑顔を向けた。
「これも何かの縁ですから」
 そう言われては断れない。詩織は絵を受け取ると、もう一度頭を下げ、今度こそその場から立ち去った。

 家に帰ってから、もらった絵の裏面に、名刺が貼られていることに詩織は気づいた。名刺には、名前だけが記されていた。秋野道草(あきのみちくさ)、というのは、筆名だろうか。一度しか会っていないが、あの人らしい名前だと思った。絵に描かれているのは、どこの風景だろう。青い空と白い雲、その下には新緑に囲まれた山道。シンプルな構図だが、いつまでも眺めたくなる絵で、優しいタッチが、あの人の人柄をあらわしているようだった。
 ……詩織は純粋に、もっとあの人のことを知りたいと思った。

 翌日、同じ時間に同じ場所を通ったのだが、秋野はそこにはいなかった。その場所ではストリートミュージシャンがギターをかき鳴らして「愛が~」だの「好きだ~」だの歌っていた。詩織は少しがっかりして、近くのファストフード店に入ってアイスコーヒーを注文した。
 ぼーっとすればあっけなく、詩織の思考は「生きる意味とは」に飛んでいく。これは、もしかしたら詩織の悪い癖かもしれなかった。
 アイスコーヒーのプラスチックカップが汗をかきはじめた頃になって、不意に声をかけられた。相席をお願いします、とのことだったので目も合わせずに「どうぞ」とだけ答えた。視界にハンバーガーが入ってきても、ポテトの匂いがしても、あまり気にならなかった。
 ところが、食べ終えたトレーの上にまっさらな色紙が置かれたのに気づき、詩織は瞠目した。顔を上げると秋野が目の前で、色紙に向かって鉛筆を走らせているのだ。
「え……」
 詩織は思わず、声を漏らしてしまった。そんな詩織の様子に構うことなく、秋野は鉛筆をさらさらと動かしている。見れば結構な大荷物を携えており、きっとカバンの中にはキャンバスや画材が詰まっているに違いないと詩織は思った。
 詩織はしばらく、秋野の手元に見とれた。描かれていく線が、やがて風景を織り成していく。力強い流線が山々をあらわし、繊細なタッチでぽっかりと雲が浮かぶ。鉛筆一本で、ここまで表現というのは広がるものなのか。
「高尾山です」
 突然、秋野が手を動かしながらそう説明した。彼は視線を色紙から外さずに続ける。
「景色を脳内再生して、それを模写しています」
「へぇ……」
 詩織は秋野の顔をちらっと見た。年の頃なら三十五、六といったところだろうか。さっぱりとした顔つきで、無精ひげがあごに少し生えており、頭にカンカン帽をかぶっている。
「昨日、お会いしましたね」
 相変わらず色紙に向かいながら、秋野は詩織に話しかけた。詩織は反射的に、
「あ、はい」
 と返事して、姿勢を正した。秋野は風景画をさらさらと仕上げると、ようやく詩織を目視した。
「偶然ですね。地元のかたですか?」
 そう問われて、詩織は一回頷くのが精一杯だった。
「そうですか」
 そう訊くということは、秋野はこの地域の人間ではないということだろうか。詩織は口を開こうとして、しかし何をどう尋ねたらいいのか迷って、そのままその口にアイスコーヒーを運んだ。
 秋野は出来上がった色紙を眺めながら、詩織にこう話しかけてきた。
「このあたりはいい場所ですよね。都心までのアクセスは悪くないのに、少し行けば大自然を満喫できる。バランスがいいというか」
 詩織は若干面食らった。自分の住む街について、そこまで深く考えたことはなかったし、ましてやそんな肯定的な評価をされるとは思わなかったからだ。
「チェーン店とオリジナルの店の混ざっている感じも、舗道に植わっている花々のチョイスも、気に入っています。特にカフェのクオリティが高い」
 なぜだろう、自分が褒められているわけではないのに、詩織は嬉しくてちょっとむずがゆかった。
「好みだな」
 秋野の独り言へ、詩織は勇気を出して食い込んだ。
「はい、いい街ですよ。……たぶん」
 詩織が「たぶん」と付け加えたので、秋野は「あはは」と笑った。
「そうですね。ゆっくり観察もできますし
「観察?」
 思わず詩織は聞き返した。すると秋野は顔色ひとつ変えずに、こう答えた。
「はい。人間観察です」
「あぁ、なるほど」
 詩織はポンと手を打った。
「風景画だけじゃなくて、人物画も描かれるんですね」
 しかしこれはとんだ早合点で、秋野は詩織の誤解を解くために問うた。
「僕を、画家の修行中か何かだとお思いでしょうか」
「え、違うんですか?」
 詩織の目が点になる。頭上にはいくつものクエスチョンマークが浮かぶ。
 ファストフード店の片隅で、秋野は口元に人差し指をあて、
「驚かないでくださいね」
 そう前置きしてから、こう告げた。
「僕は、死神です」
「……」
 詩織の目が点から線になる。
「なんのギャグですか」
「やっぱ信じてもらえないか」
 秋野は肩をすくめた。
「そうですよね。すぐ信じるほうがどうかしてる」
 そう言って、何事もなかったかのように色紙を手に取ると右下にローマ字でサインを入れ、
「はい、これ」
出来たての絵を詩織に手渡した。
「どうぞ。迷惑じゃなければ」
「えっと……」
 詩織はどう返答していいのかわからなかった。ただ、面白くない冗談を言い捨てられた気がして、少し気分を害した。
「結構です、要りません」
「それは残念」
 秋野は首を傾げた。その黒い目は確かに人間のそれなのだ。形容しがたいもの、例えば人間離れした雰囲気やオーラのようなものは、秋野からはまるで感じられない。至って普通のどこにでもいそうな、やや優男系の男性だ。
「では、ご縁があればまたどこかでお会いしましょう」
 秋野はそう挨拶して、席を立った。詩織が応答に窮しているうちに、姿は見えなくなった。

 それから数日後、詩織は秋野と最初に出会った場所をまた通ってみたのだが、やはり会うことはできなかった。詩織がとぼとぼと家路を歩くと、夏よりぐんと短くなった太陽の光が西陽となって駅ビルや家屋を照らしているのが見えた。
 夕暮れというのはどうしてこうも人の心を掴むのか。空を染める赤と青とその真ん中で遊ぶ色たち。
 詩織はそれらを目で楽しみながらしばらく歩いていたのだが、ふと、とある看板が目に留まった。「山内家」という文言と矢印だけ書かれた簡素なそれは、葬儀会場の案内だった。この近くの斎場で、通夜が執り行われるようだった。それだけならば、よくある風景といえばよくある風景だ。しかし、斎場へ続く道に、喪服の人々にまじって、およそ葬式に相応しくないポロシャツにジーンズ姿のカンカン帽を見つけた詩織は、心の中で「あっ」と声をあげた。
 秋野が、斎場の方をじっと見ている。あれが「人間観察」なのだろうか。詩織はそろりと近づいて、思い切って話しかけた。
「秋野さん」
 すると秋野は少し驚いた表情で、しかしすぐに
「ああ、また会いましたね」
 笑顔で応じた。
「ご縁があるんですかね。まぁ、僕と縁があっても、人間にはおめでたくない話でしょうけど」
 そんなことを言うものだから、詩織は斎場を見やった。
「こんなところで、何をしているんですか」
 ラフな格好で大荷物を携えた男性が、電柱の近くで佇んでいる。これでは下手すれば不審者に見えかねない。
「警官に職質されますよ」
 詩織がそう忠告すると、秋野は手をひらひらさせて、
「それは大変だ」
 全然大変そうではない口調で返した。彼は空を指差して、
「いい夕暮れですね」
 詩織に微笑んだ。
「お見送りにはうってつけの美しさだと思いませんか」
「お見送り?」
 秋野は、今度は斎場の入り口にかけられた看板を指差した。
「山内佐知子さん。八十九歳の女性で、老衰でお亡くなりになりました」
「なんで、そんな情報……」
 言いかけて、詩織はハッとした。
(まさか。でも、本当に?)
 目をぱちくりさせる詩織に追い討ちをかけるように、秋野は問う。
「まだ、信じてもらえませんか」
 彼は困ったように笑い、ため息をついた。
「もっとも、その方がいい。僕なんかと縁があるなんて、それこそ縁起でもないですから」
 詩織はゴクリと唾を飲んだ。秋野が自分をからかっているようには、どうしても思えなかったからだ。
「橋場詩織です」
 考えるより先に、名乗っていた。そのことに、詩織は自分でも驚いていた。だが、秋野の言うことが本当だろうが冗談だろうが、そんなことはどうでもよくて、ただ、彼に自分のことを知ってもらいたい、そう思ったのだ。
秋野はますます困った顔つきになった。
「自分から死神に名前を教えるなんて、珍しい人ですね」
「え?」
「ある意味、危険な行為ですよ」
 秋野は大ぶりの黒いカバンから、大量の紙がファイリングされた資料を取り出した。辞書のように分厚いそれをパラパラとめくると、彼は首をひねった。
「は、は……はし、はしば……」
 秋野の挙動が気になって、詩織はその様子を覗き込もうとした。ちらっと見えたのは、名簿のような形式の何らかの一覧表だった。秋野はすぐさま顔を上げた。
「あ、ダメダメ。見ちゃダメです。超絶、個人情報ですから」
「あ、スミマセン」
 何を見ているのだろう、という興味もあったが、それ以上に詩織は秋野の資料をめくる指先の動きに見とれた。白くて細長くて滑らかなそれらが、紙をめくるたびに揺らいで見える。綺麗だ。詩織はすっかり魅入っていた。
「やっぱりないなぁ。うん」
 秋野はもう一度首を傾げてから、詩織にこう告げた。
「橋場さん。あなたは今のところ、少なくとも今年中は、死ぬ予定はありません」
「えっ」
「こちらのリストに名前がないもので」
「なんのリストなんですか」
 秋野ははにかんだ笑顔で、口元に人差し指をあてて「秘密です」とだけ言った。
「あ、いらっしゃい」
 秋野が声をかけた先には、上品な紫の着物を着た老婆が立っていた。秋野は詩織に、
「こちら、山内佐知子さん」
 そう紹介した。
 詩織は今度こそ戦慄した。彼は至って真面目な口調だ。ふざけて言っているわけではなさそうだ。なにより、その山内さんという女性が、全てを物語っているようだった。つまるところ、「秋野道草」なる存在は、本物の死神ということだ。
「橋場さん、それではまた、ご縁があれば」
 秋野は山内さんの手をとると、
「参りましょう」
 優しく微笑んだ。山内さんもゆっくり頷き、そのまま一緒に高尾山のほうへ歩き去っていく。夕焼けは夜に化けようとしている。すぐそこまで、宵闇は迫っていた。
「待って!」
 詩織がそう叫んでも、秋野は背を向けたままカンカン帽を一度上げただけだった。

 詩織は自宅アパートの隅に置いたベッドの上で、秋野がくれた風景画を眺めていた。彼が本当に死神なら、自分はもうすぐ死んでしまうのだろうか。いや、でも今年死ぬ予定はないとも言っていた。しかし、予定は未定という言葉もあるし……などと逡巡しているうちに、やがて疲れて寝てしまった。眠りぎわに、秋野の優しい笑顔を、詩織は思い浮かべていた。

 それからしばらくは仕事もうわの空で、よく上司に叱られた。けれどそれも全然気にならなくて、それがいいのか悪いのかはさておき、詩織はぽつぽつと秋野のことを考えていた。

「ご縁があれば」

 秋野の言葉が頭にリフレインする。「ご縁」さえあれば、また会えるのだろうか。
 職場の同僚の女子には、ランチの時にこう指摘された。
「詩織、恋してるでしょ」
「えっ」
「ほらほら、顔が真っ赤だよ。恋するのはいいけど、そっちのミスをフォローするこっちの身にもなってよね」
「うー……」
 詩織は自分が赤面していることなどまるで自覚がなかったので、その同僚の言葉は意外だった。ためらいがちに、詩織は呟いた。
「どうなんだろうなぁ。好きになっちゃいけない相手な気がして……」
「えっ、まさか妻子持ち?」
 前のめりになる同僚を制して、詩織はぶんぶんと首を横に振った。同僚はなおも息まいて、
「だったら、チャンスは自分から作らなきゃ」とウィンクした。
「ん……」
「王子さまは今どき、白馬に乗ってはやってこないよ。自分からアタックすべし。明日に向かって、打つべし、打つべし!」
 同僚はそう冗談めかして半ば強引に、詩織の背中を押した。

 その日の仕事帰り、私服に着替えた詩織はほぼ勢いでスニーカーを買い、履き替えたその足で高尾山口駅行きの電車に乗った。
 高尾山へと続く線路はリズムよく詩織を運ぶ。夕凪の街を越え、風景がだんだんと優しくなってゆき、やがて静寂が主役の駅のホームに降り立った。対面路線の発車サイン音だけがやけに耳にけたたましく響く。まるでうつし世と異世界との境界を報せるようだった。
 夕闇迫る高尾山は、安易に人間を寄せつけない雰囲気を醸し出していた。その入り口には山道へ続くケーブルカー乗り場があるのだが、詩織が着いた頃には最終便も終わっていた。この時間から、一人で、しかも自力で山を登るのはあまりに無謀だ。
(「ご縁」は、ないのかな)
 詩織は少しだけしょげて、山の入り口付近にたくさんある蕎麦屋の一軒に足を運んだ。月見そばを注文して、長いため息をつく。
 会いたい気持ちだけでここまで来て、自分は何を考えているのだろう、と詩織は若干、自己嫌悪に陥った。
 運ばれてきた月見そばを見て、黄身のあどけないプルプル感に、さらに無性に泣きたくなってきた。
(……バカみたい)
 何がどうであれ、人間は腹が減る。詩織はツルツルと蕎麦をすすりながら、自分の気持ちに素直でいるために、とりあえず泣いた。泣いている間は、何も考えずに済んだ。思ったことといえば、いつこの黄身を箸で崩すか、それくらいのことだった。
 つゆの一滴まで美味しくいただいた詩織は、頬をぱちんと両手で叩いた。
(さ、帰ろ)
 気が済む、というのは実は人が行動を決めるにあたって、非常に重要な因子かもしれない。あらゆる行動の動機の根源が、欲求や欲望であるのと同様に。
 秋野に会いたい。その一心でピッカピカのスニーカーを買い、帰途を遠回りして高尾山にまで来て、結局、美味しい蕎麦をたらふく食べて。
 ……泣きながら満腹になるなんて、随分と滑稽なことだと詩織は思った。
 しかし、泣いたら少しスッキリした。涙を流すことには確か、気持ちを落ち着ける作用があるのだと、どこかで聞きかじったことが詩織にもあった。

 すっかり日も暮れ、穏やかな闇が辺りを包み込んでいる。虫の声が耳に心地よい。詩織は駅近くのコンビニでペットボトルの麦茶を買い、ベンチに座って空を見上げた。
 ちょうど三日月が浮かんでいた。あれがパンだったらクロワッサンだ。バターたっぷりで、サクサクふわふわの。
 そうして、やはり詩織の思考は「生きる意味」について遷移していく。もしかしたら、世界は毎日終わっていて、毎日始まっているのかもしれない。だとしたら、眠りは小さな死で、起床は小さな誕生だ。けれども人生なんて、ほんの一瞬だ。この虚しさに似た心のぽっかりも、寝て起きたら、そう、新しい世界が始まったら全部忘れる。その程度のことなのだ。詩織は麦茶を飲みながら考えた。それだったら、いつ死んだって同じじゃないか、と。
 そう思ったら、また無性に泣けてきた。先ほど解放したばかりの涙腺から、ほろほろと涙が再び溢れてくる。詩織は顔を伏せて、しばし泣いた。
「……大丈夫ですか?」
 ふいに「その声」で話しかけられて、詩織の心拍数は跳ね上がった。ゆっくりと顔を上げると、そこには確かに、秋野の姿があった。秋野は話しかけた相手が詩織だと気づくと、「あらら」とわざとらしく両手をひらひらさせ、
「ありましたね、『ご縁』」
 と笑った。その笑顔を見た詩織はそのまま、わんわん泣き出した。

 高尾山の入り口の奥にある石碑が建ち並ぶ場所まで、詩織は秋野と一緒に歩いた。まだしゃくりあげながら、詩織は泣いていた。秋野は何もきかずに、ただそばにいてくれた。
 三日月が冴え冴えとこちらを見下ろしている。
 やや間があってから、秋野が沈黙を破った。
「僕の愚痴、聞いてくれますか」
「……え?」
 秋野は「仕事の愚痴です」と前置きし、
「ここ十数年、リスト外からお連れする人が増えてて、困ってるんです」
 そう言いながら、詩織に生成り布のハンカチを差し出した。
「リストはね、僕がお連れする方々の一覧なんです。死神の仕事は、この世からあの世への橋渡し」
 詩織は、涙をぬぐいながら秋野の静謐な口調に耳を澄ませた。
「でも、リストにないはずの方が、お亡くなりになるケースが急激に増えている。なぜだか、わかりますか」
 詩織は、自分がいつも「生きる意味」についてつらつら考えていることを見透かされている気分だった。
 詩織はおそるおそる、こう答えた。
「……自殺、ですか」
 秋野は寂しそうに頷いた。
「昨日は二度とやってこない。今日は一度きり。明日が来るという確証は、どこにもない。違いますか」
 詩織は首を横に振った。秋野はさらに続ける。
「自ら命を手放すというのは、悲しいことです。命は、どんな理由があっても奪われてはならない。命とは、全うするものです」
「そう、ですね」
 やや気圧されるように詩織は答えた。
「僕ら死神は、普段は人間たちに紛れて暮らしています。『仕事』の時にだけ、任務を遂行します」
 詩織ははたと、浮かんだ疑問を口にした。
「あの絵は、なんなんですか?」
「趣味と実益を兼ねたものです。絵を描くのは好きですが、この世で過ごすための小銭は自分で稼がないといけないですから」
「へぇ……」
「そんなことより」
 秋野は、詩織のおでこあたりを指差した。
「橋場さん、あなた、『いつ死んでもいい』とお考えですね」
「なんで、そんな……」
 しかしそれは愚問だ。
「勘のようなものです。ほぼほぼ当たる、死神の、ね」
「……」
 秋野は涼しい顔で続ける。
「確かに、人生は刹那の打ち上げ花火のようなものです。パッと闇を彩り、静かに消えていく」
 両手で花の咲くような仕草をして、秋野はこう詩織に告げた。
「でも、だからこそ、その一瞬くらい、恋をしたって、いいんじゃないですか」
 なにもかも、お見通しというわけか。詩織はうつむいてしまう。
「私は……。私なんて、誰のかすり傷にもならないつまらない人生しか送れないのなら、いつ終わっても同じだと思ってて……」
「ここに『ご縁』があっても、ですか?」
「え?」
「袖振り合うも多生の縁、と言います。あなたはこうしてここまで来て、自分の人生を切り拓いたのではないですか」
「別に、そんな大仰なことじゃないです」
「そうなんですか」
「……たぶん」
「そうですか」
 詩織は、秋野を前にして、いい歳をしてこんな悩みに囚われている自分が恥ずかしくなって、見下げる三日月に助けを求めんばかりに、夜空に向かって叫んだ。
「……じゃあ!」
 秋野は腕組みして、じっと詩織を見ている。
「人が生きる意味って、なんなんですか」
 詩織はずっと己の心を縛ってきた疑問を、虚しさを、不安を、思い切って秋野にぶつけた。
「死神なら、わかるんでしょう、そんなことくらい」
「意味なんてありませんよ」
 秋野は即答した。詩織はあっけにとられる。
「生きることに意味などありません。いちいち意味を求めるから、辛くなるんじゃないですか」
 秋野はたたみかけるように語る。
「あまねく命に優劣がないのと同じです。意味を求めると価値の上下が生まれてしまう。すべて尊いんですから、生きることに意味なんてありません」
「……」
 詩織はこぶしをぎゅっと握った。そして深呼吸をゆっくりと三回して、まるで罪でも告白するかのように、消え入りそうな声で言った。
「だったら、こんな……ちっぽけな私でも……」
 秋野は詩織を見守るような眼差しを向ける。
「せめて、私は……」
 詩織は目を強くつむった。
「私は、あなたの、かすり傷になりたい」
 言ったそばから、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
「……ごめんなさい。変なこと、言って……」
「……」
「こんなこと、許されないって、わかってます……」
「……」
 秋野はしとしと泣く詩織を見つめている。彼は、しばらく沈黙してから、長く息を吐いた。
「……かすり傷どころか、とんだ火傷だ」
 秋野はおもむろに腕を伸ばして詩織をそっと抱き寄せ、彼女の耳元でそうささやいた。秋野の言葉の意味するところに気づいた詩織の心拍数が、一気に跳ね上がる。
「え……」
 自分に触れる秋野の右腕をそっと握り返し、詩織は呟いた。秋野は、彼女の頭にぽんと左手を置く。
「人間と死神とが恋をしては、いけませんか」
 その言葉に、詩織は息を飲んだ。
「あ、あの、えっと……」
「だって、ご縁があったんですよ」
 秋野の口調は容赦なく優しい。彼はまっすぐにこちらを見てくる。この瞳だ。初めて会ったときから、詩織はこのあたたかい瞳にすっかり魅せられているのだ。
「ご縁とは、丁寧な、より糸のようなものです」
 秋野は穏やかな口調で、こう断言してくれた。
「あなたが、自分の手で手繰り寄せてくれたんです」
「……!」
 そう、「ご縁」の糸は、詩織が自分の行動と決断で引き寄せたものだ。そして、それはこれからの詩織の人生を鮮やかに織り成していくこととなる。
「詩織さん」
「はい」
 初めて、秋野が名前で呼んでくれた。詩織の顔が燃えんばかりに赤面する。それを見た秋野は、柔らかく笑んだ。
「お願いがあります」
 詩織は秋野を見上げて、彼の腕の中で小さく頷いた。
「どうか僕のそばで、命を全うしてください」
 詩織の口が、ゆっくりと、「はい」と動いた。

 最初で最後の恋の相手が死神とは、人生何がどう転ぶかわからない。だからこそ生きることは面白いし、何より尊い。詩織は最近、そう考えるようになった。
 いつか、歳を重ねて詩織が人生を終わらせる時が来ても、そばにはずっと秋野がいてくれる。それだけでもう、詩織の心に穿たれていた心のぽっかりは、十二分に満たされている。

 人生が刹那なら、好きなだけ恋をしたって、誰かを愛したっていい。生きることにもう、詩織は意味を求めない。生きていること自体に、意味が溢れているからだ。

 夕暮れ時、高尾山に続く道に伸びる、二つの影。寄り添うように歩くそれは、生きることをまっすぐに肯定した者たちの姿だ。この日は、大往生した男性を見送った。

 手を繋ぎながら、詩織が口を開いた。
「……あのね。私が、しわくちゃのおばあさんになったときには」
「うん」
「おっきなキャンバスに、私の肖像画を描いてね」
 秋野は「喜んで」と微笑んだ。
 二人の影が、山の中へ静かに消えていく。十六夜の月が、雲間から優しく顔を覗かせていた。

~おしまい~


記事をお読みくださり、ありがとうございます!もしサポートいただけましたら、今後の創作のための取材費や、美味しいコーヒータイムの資金にいたします(*‘ω‘ *)