鈴木康二朗

プロ野球スーパースター烈伝⑨鈴木康二朗

今回は近鉄創世記のリリーフエースとして活躍された鈴木康二朗投手のご紹介です。鈴木投手は1972年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)から5位指名を受け入団します。

ヤクルト時代の出来事としては、1977年9月3日に読売ジャイアンツの王貞治さんに世界新記録となる756号本塁打を打たれて有名になったことでしょう。王貞治さんに世界新記録となる756号を打たれた投手には「サイパン島ペア旅行券」をプレゼントされることになっていたが、プロとしての意地から受け取りを拒否しました。

この時のことを鈴木投手はこう述懐しています。

1983年に移籍した近鉄の春のキャンプ地が皮肉にもあろうことかサイパンだったのは何かの冗談みたいですが、本当の話です。

通算81勝52セーブという堂々たる数字を球史に刻んでいるにもかかわらず、この話題は長く彼につきまとい、2017年夏に週刊文春で受けたインタビューもやはりこの件が見出しとなったそうです。

近鉄時代は石本貴昭投手とのダブルストッパーとして活躍し、1984年、1985年には最多セーブ(最優秀救援投手ではない)を記録(35歳で開幕迎えたシーズンのセーブ王獲得は2010年ブライアン・シコースキーと並びパリーグ最年長記録タイ、日本プロ野球史上でも右投手として最年長記録タイ)。1984年のオールスターゲームに出場した際には、20世紀最後のオールスターゲーム3連投を経験しています。

私個人としては近鉄時代に初セーブをあげた翌日の新聞の見出しが「俺も鈴木だ!康二朗」というものだったことをよく覚えています。

当時、近鉄の絶対的エースだった左腕の鈴木啓示投手と比較してのことでしたが、先発にこだわりぬいた鈴木啓示投手と、リリーフエースとして存在感を示した右腕の鈴木康二朗投手の格好良さは今もなお記憶に焼き付いています。

鈴木投手の背番号12はのちに名手としてならした真喜志康永内野手に受け継がれましたが、私にとって背番号12は鈴木康二朗投手のイメージの方が強いのです。

1986年には出番が減り、同年限りで現役引退。プロ引退後も社会人軟式野球で現役を続け、茨城県代表として1995年の国民体育大会(ふくしま国体)でも登板しています。

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引退後は出身地・北茨城の廃棄物処理会社に勤務していらっしゃいましたが、60歳の時に定年。現在は被災地の復興を願いながら、静かに毎日を送っていらっしゃるそうです。

両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。