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[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝#64 ミスター・ポーゴ

今回は「極悪大王」の異名をとり、顔に隈取ぽいペイントを施し鎖鎌やチェーンを試合で使用。口から火を噴いて相手を焼く火炎殺法など、インディー団体を股にかけた、デスマッチ系ヒールレスラーことミスター・ポーゴ選手のお話です。

ポーゴさんと何かと因縁がある、ケンドー・ナガサキさんとはプエルトリコのマットに共に上がっていた事もあり、後にタッグを組み80年代は新日本プロレスのリングにも参戦していたこともあります。

チームとしては非常にうまく機能しており、関係者からの評判もよかったのですが、なぜか本格始動することなく、新日マットからは消えていました。

誰しもが当時はてっきり二人は友好的な間柄だと思っていたと思われるのですが、実はナガサキさんは「あいつはレスラーの基礎ができていない」と低く評価していた上に、プエルトリコでは地元の女性を巡って険悪な関係になったこともあったんだそうです。

テレビのプロレス生番組収録中にナガサキから仕返しされたという話も残っています。

ポーゴさんは、リングのイメージとはかけ離れた素顔は今ではよく知られています。

ポーゴさんのお父様は元々は群馬県会議長まで務めた名士で、いわばお坊ちゃま育ちだったわけですが、お父様が急死した途端、父の秘書から木偶の坊呼ばわりされる羽目に陥り、それを見返してやろうと大相撲入りしたんだそうです。地力はあったんですね。

大相撲では序の口優勝もしたんですが、膝の怪我で廃業します

中学の柔道部時代に、顔見知りだったグラン浜田さんと一緒に、日本プロレス入門を志願しますが、入門を許されたのは、身体の大きかったポーゴさんだけでした。

ポーゴさんは一人で入門するのは嫌なので入門を諦めて、浜田さんと共に新日本プロレスに入門します。しかし新日本も早々に解雇されてしまいます。

噂では新日本入門後も実家に仕送りを無心し、それを知った山本小鉄さんが激怒したからだともいわれていますが、真偽は定かではありません。

ポーゴさんは、そこから単身米国に渡り日系ヒールレスラー「ミスター・セキカワ」「ミスター・セキ」として活動します。

とはいっても他の悪役日本人選手と比較すると実績は劣り、78年に「ミスター・ポーゴ」に改名します

テキサスやセントルイスのリングでハリー・レイス選手やテリー・ファンク選手と抗争を展開したのが絶頂期になります

有名どころではあのダイナマイト・キッド選手や修行時代の佐々木健介さんをパートナーにタッグタイトルを取ったりしています。

しかし、日本人ヒールとしては鳴かず飛ばずになっていたときに、大仁田選手の宿敵としてFMWのリングに登場します。

以降FMWで大仁田さんの宿敵として流血の抗争を展開するのですが、ポーゴさんは甘い話にはめっきり弱いようで、新興団体『W★ING』に突如移籍しエースに収まります。

火炎殺法やチェーン、鎖鎌といったポーゴの極悪殺法のアイテムもW☆ING時代から使いだしたものです。

ところがそんなW★INGから離脱しFMWにUターンしてします。これがW★ING崩壊のひきがねになり、また多くの確執を生んでしまいました。

しかし、その後移籍した大日本でも勝手に離脱を宣言され、さすがに怒ったグレート小鹿さんやケンドー・ナガサキ選手とは、警察沙汰になる揉め事を起こしてしまいます。

なのに、またもやFMWや大日本プロレスにカムバックする事になるのですから、いかに誘いがあったからとはいえ、その無節操さには呆れてしまいます。

ポーゴさんのいい加減さ、軽率さはレスラー仲間も指摘してる所で、W★ING以来の腐れ縁関係だった松永光弘さんがつい軽い冗談のつもりで「ポーゴさん、選挙にでも出たらどうですか」と言ったらそれを真に受けて、伊勢崎市議会選挙に立候補していまい、最下位で落選の屈辱を味わってしまいます。

のちにポーゴさんが旗揚げした地元密着団体『WWS』の運営も上手くいかなかった様で、食うのに困ったポーゴさんはタニマチの紹介で風俗店のボーイまでやり「お客にポーゴとバレるのが厭だった」っていっていたんだそうです。

リング上の極悪ヒール気取りと、インタビューでのヘタレぶりの落差は余りにも大きく、それも凋落の原因だったのかもしれません。

そんなポーゴさんはやっぱり「嫌い」にはなれなかったですね。

ポーゴさんは腰の手術を行うため全身麻酔をかけている最中、不整脈により血圧が低下し、脳梗塞を発症し、2017年6月23日未明、群馬県内の病院でお亡くなりになられました。66歳でした。




両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。