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[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝#86 力道山

全国民の支持を受けて

今回は日本のプロレスにおける始祖ともいえる力道山選手のお話です。

1952年2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名さんの下で猛特訓を受けた力道山選手は、翌年帰国して日本プロレスを設立します。

シャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなりました。

出血が止まる体質

怪我をしてもすぐ出血が止まる体質だったようで、リキパレスでプロレスの試合が終わると、怪我したままの状態で「(リキパレスの別フロアのレストランで)『今日はひどかったねえ』なんて話をしながら酒を飲んでいる」というのが日常だったそうです。

相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したといいます。

礎を築いた最大の功労者

力道山選手は素行の面でいろいろと問題はありましたが、プロレスラーとしては比類のないスター性とカリスマ性を備えており、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いないところです。

「総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前を知らない者はいない」とされ、テレビの普及にも大きく貢献しました。

力道山選手は、アメリカでプロレス武者修行を行っています。当然そこで、今話題のロックアップと、その意味合いも教わってきたと思われます。

で、大相撲出身の力道山選手はなぜこのロックアップを自分のものにできたのでしょうか?

「闘い」がある

私が想像するに、大相撲にある「組手」の概念を、自身の中で咀嚼してきたのではないかと思うのです。

大相撲では、組んでから右四つ、左四つに組んで、そこから投げる競技ですが、レスリングでもこの差し合いは、勝敗を決める非常に重要な要素になります。

そこにはれっきとした「闘い」があるわけで、アメリカンプロレスになかったであろう「闘い」の概念を注入したのは、力道山選手ではないかと私は思っています。

遺伝子を受け継いだ

その力道山選手の遺伝子を受け継いだのが、ジャイアント馬場さんと、アントニオ猪木さんだったわけですが、馬場さんはプロ野球出身者、猪木さんは陸上競技出身です。

そもそも両スポーツとも組手の概念はなかったので、これも想像するに、師匠が「こうだ!」というものを、そのまま素直に受け取った結果、後世に「組む=闘い」の概念が受け継がれたのではないでしょうか?

どういう意味があるのか

ただし、その遺伝子は年々薄れていっているので、ここでロックアップ論争が再燃したことは、選手にとってもファンにとっても意義のあることだと思っています。

なぜなら「なんとなく」やっているロックアップにどういう意味があるのか?お互い考える契機になったと思われるからです。




両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。