スタン_ハンセン

私的プロレススーパースター烈伝⑯スタン・ハンセン

アマリロでデビュー

今回は不沈艦の異名を持つスタン・ハンセン選手のご紹介です。

ハンセン選手は1973年1月1日、アマリロ地区にてプロレスラーとしてデビューします。

その後、1976年上期にWWWFに登場。同年4月26日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、当時のWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノ選手の首を骨折させた事件をおこしてしまいます。

首折り事件の真相は

実際はハンセン選手がボディスラムを失敗したことによる重度の頸椎捻挫でしたが、これはウエスタン・ラリアットによるものとして宣伝されました。

これによってハンセン選手は一躍有名になりましたが、この一件後、クラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなってしまいます。

日本へ活路を

そこで活躍の場を日本に求めます。最初の来日は1975年9月、全日本プロレスでした。この時代ハンセン選手はまだ一介の若手でしたが、実際のところ当時の馬場さんの評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったそうです。

1977年1月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦します。同年秋の再来日からはシリーズの外国人エースを務め、9月2日に愛知県体育館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に初挑戦。9月29日には大阪府立体育館にてザ・ハングマンをパートナーに、坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦しています。

新日→全日へ

以降、新日本プロレスの主力外国人選手となり、1979年の「第2回MSGシリーズ」ではアンドレ・ザ・ジャイアントを抑えて猪木と優勝戦を闘い、以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開しました。

しかし、新日本と全日本の引き抜き合戦の果てに、1981年12月13日の蔵前国技館で行われた「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場します。以降両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を表明するまで全日本マットで活躍しました。


両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。