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[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝#95 ケンドー・ナガサキ

実力は日本人最強

今回は喧嘩最強の伝説を残したケンドーナガサキさんのご紹介です。

日本プロレス時代のナガサキさんの実力は日本人最強であったともいわれています。

アメリカ武者修行時代の喧嘩の腕前は相当なもので、拳銃を持った相手に素手で立ち向かって叩きのめしたという逸話も残しています。

ナガサキさんは、中学卒業後、大相撲の立浪部屋に入門し、1966年9月場所には序二段で全勝優勝をしています。

しかし、先輩力士とのトラブルに端を発し、部屋の親方と反りが合わなくなり1971年3月廃業します。

日本人ヒールとして転戦

同年日本プロレスに入門し、6月27日にデビューしました。日本プロレスには1973年の崩壊まで残りました。

その後、ナガサキさんは全日本プロレスに移籍します。全日本の道場では新人のコーチを務め、渕正信、大仁田厚、園田一治らを指導しています。

韓国遠征では虎柄の覆面を被り、タイガーマスクを名乗ったこともあります。

1976年10月、天龍さんとともに渡米しますが、渡米後は天龍さんと別行動を取り、『ミスター・サクラダ』のリングネームでアメリカをはじめカナダやプエルトリコなど北米各地を日本人ヒールとして転戦します。

ケンドーナガサキへの変身

ケンドーナガサキへの変身は、1982年3月、テリー・ファンク選手のアイデアによるもので、剣道の防具をコスチュームに、頭頂部を剃り上げた落武者スタイルの怪奇派ヒールとして、1985年3月には、当時全米侵攻を推進中だったWWFに対抗してAWAがニューヨークで開催した興行に参加します。

1985年に全日本プロレスを退団して、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区で後藤達俊と覆面タッグチーム『ライジング・サンズ』を結成します。

そのまま同年10月に新日本プロレスに参戦し、リングネームを『ランボー・サクラダ』に改め、素顔で試合を行い、テレビマッチでブルーザー・ブロディともシングルマッチを行っています。

ユニットを組んでスティングやフォー・ホースメンと抗争しました。

SWS設立の中心人物

その後帰国して、旗揚げ間もないFMWに参戦し、大仁田厚&ターザン後藤組とストリートファイトマッチで対戦しますが、FMWには1シリーズのみの参戦となり、1990年に将軍KYワカマツさんと共にSWS設立の中心人物として活動します。

1990年8月3日付の記事でSWS旗揚げ時のメンバー一覧に記載される形で初めて日刊スポーツに名前が載り、日本のプロレスファンにその存在を周知されました。

SWS旗揚げの際には再びケンドー・ナガサキのリングネームに戻し、『道場・檄』の実質的なリーダーとして活躍します。

デスマッチ戦線の土台を作った

SWS崩壊後は、『道場・檄』のメンバーと『パライストラ』との合同でNOWを旗揚げし代表取締役となりますが、正式な旗揚げ戦の前に高野兄弟が離脱し、実質的なNOWのエースとなるものの、経営不振のためにNOWは崩壊しました。

その後、1995年にグレート小鹿さんに誘われ大日本プロレスに参加し、デスマッチ路線で活躍します。

ナガサキさんは、大日本プロレスの基礎となるデスマッチ戦線の土台を作った人物ともいわれます。

1996年8月19日の横浜文化体育館で松永光弘選手と世界初のピラニアデスマッチを敢行したのはその好例と言えます。

その後、小鹿さんとの意見の相違もあり、大日本プロレスを離脱します。

「付き人」制度がないのは

2000年代にはお店の経営が主となっており、プロレスのリングにはたまに上がる程度になっていました。

その後の2009年には、過労による体調不良もあってか、全てを廃業しています。

2020年1月12日、ナガサキさんは千葉県市原市の自宅で死亡しているところを知人により発見されました。71歳でした。

なお、ナガサキさんの死去に至るまで大日本プロレスに「付き人」制度がないのは、ナガサキさんの影響だといわれています。



両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。