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読書、現実逃避、ハリネズミ。

物語を読むことで救われることがある。
外の世界で、どうしようもなく身も心もいたんだとき、逃げこむ先、駆け込み寺。現実にたいする思考をいったん停止させたいと願い、ページをめくるとき、本はその本にしまいこまれたそ「時間」をそっと動かしはじめてくれる。そこにもうひとつの世界を開いてくれる。(だから、小説家とは、本を開くだれかのために「時間」を吹きこむひとのことなのだ。)

はたから見れば、それが「現実逃避」であることはこの際いったん置いておこう。
読むことは、ハリネズミみたいに体をまるませ、自分がいるちいさな場所を確保することだ。外の世界から押しつぶされないよう身のやわらかな部分を隠し、小説から吸いあげた養分をトゲにして強がってみせている。
弱々しい姿であろうがなんだろうが、それが読むことの姿だ。
なぜ、読むのか。そのことを自分で忘れてしまったときにはハリネズミの姿を思いだすことにしよう。

ともあれ。
本はやさしい。こちらが、もうお腹いっぱいというときには、ページをめくることやめればよい。物語の行先が気になって仕方なくなると、細部の描写を読み取るのもなおざりにして性急にページを進める。読むことはすこしだけ能動的な行為だ。少しだけ。

たとえば、映画はやさしくはない。映画は巻き戻しも停止も、音量を下げることも基本的には許さない。100%の感動は100%の感動のまま、その光と音をこちらの脳へ流しこめと命令してくる。
小説と映画、どちらが良い悪い、という話ではない。心が沈み込んだときに映画へ向かうひと、小説へ向かうひと、それぞれ向き不向きがあるということだ。小説のよいところは、ページをめくる分、ほんの少しだけ能動的であるということ。

小説には失礼な話だけれど、だから小説を読んでいるとき、あまり心は動いていない。
小説の100%の感動を100%受け取るのは、かなり難しいことだ。そのためにはコンディションやら気持ちのチューニングやらが、必要だ。学校で教えられてないからか知らない人が多いが読むことは本当は少しだけ能動的な作業だ。文字だけから音も絵もたちあげるのだから当たり前といえば当たり前だけど。(落語が観客参加型のオーディオ芸だ、なんて言われるのに似ている。)
でも、60%だろうが70%だろうが、読んでいるのだ。たぶん、ページをめくりたいから読んでいる。それで、救われている。

そして。

「心は動かない」などといっておきながら、どうしたって小説は静かに染み込んでいく。遅効性の毒みたいに。
一度開いてしまった小説の「時間」をそっと閉じて、なにも持ちださずまっさらなまま外の世界へ還ることは許されていない。
たぶんそれが読むことの代償だ。
小説はやさしくて、こわい。

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