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Huawei(ファーウェイ)創業者任正非さんの生い立ち

以前もHuaweiという中国の代表的なIT企業を紹介する記事を書きました。様々な面で注目を浴びている企業ですが、創業者兼CEOの任正非さん(以下、任さん)は未だに得体が知らない男という印象が強いです。業界の人に聞いても、任さんについてあげられるのは恐らく次の2点しかないと思います。任さんが元軍人であることと、HuaweiのCFOを務めた娘がカナダで逮捕されたことです。今回の記事は、特に任さんの生い立ちと創業経験(2005年まで)について紹介したいと思います。

生まれからファーウェイ創業まで

任さんは1944年に中国の貴州省の農村で生まれました。広東省の少し北西にある「省」(日本の県に相当する行政単位)で、中国の最も貧しい省の一つとして知られています。両親は中学校の先生で、7人もの子供を生みました。任さんも一番年上の子供で、ご想像の通り、かなり貧しい環境で育ってきました。任さんは相当な努力家で、逆境を跳ね返し、大学まで進学できました。当時の中国は、都市部でさえ大学生になれる人はごく少なかったので、極貧な農村部の任さんの勤勉さが伺えます。

1967年に大学を建築学専攻で卒業しましたが、ちょうど文化大革命が始まった頃だったので、普通の企業に就職できませんでした。その代わりに、軍隊に応募し、社会インフラ整備や鉱山開発などに特化した部隊に配属されました。

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(軍人時代の任さん)

人生の最初の幸運が訪れたのは、一人目の妻と結婚できたことです。孟军(下記、孟さん)という女性と友人経由で知り合って、結婚できました。公式な資料がないですが、孟さんの父親が四川省の副省長を務めた人であることは広く知られています。つまり、任さんは孟さんとの結婚で、一気に強力な後ろ盾を得ました。当時の任さんは自嘲気味にこう言いました。「孟がなんで僕のことに気にいったか全然理解できません。当時の孟は僕よりはるかに優秀だったから」と。

任さんは軍隊でかなり際立った実績を積み上げ、評価されていたようでした。しかし、1980年代の始めから中国は大規模な軍縮を始めました。それが原因で、1983年に、39才の任さんは軍隊を退いて、深セン市にある石油関連の国営企業に部長レベルの役職で就職しました。その就職も当時の妻の孟さんの父親が斡旋した結果だったらしいです。

ファーウェイを立ち上げた

軍隊で単純な生活を送ってきた任さんは、抜け目なく計算高いビジネス世界の企みや罠が分からず、挫折しました。1987年のある外部企業との交渉で、任さんの失策により、会社が大きな損失を被りました。それで任さんは解雇されました。不幸は重なり、同じ年に妻の孟さんから離婚を要求されました。すでに44才の任さんはまるでお金もなく、仕事もなく、家族もない負け犬のようになりました。

人生のどん底に落ちましたが、任さんは運命に負けたくありませんでした。奮起して運命に抗おうとしました。友人から2.4万人民元(当時の為替レートで計算すると、100万円ぐらい)を借金し、「华为」(英語:Huawei、繁体字:華為、正式日本語名:ファーウェイ)という会社を深センで立ち上げました。因みに、後日、任さんはフランスの記者とのインタビューで当時なぜ「华为」という社名を選んだかという質問にこう答えました。「当時、どんな社名にすればいいか分からなくて悩みました。ちょうど壁に「中華有為」(意味:中国は偉大なことを達成していく)というスローガンが書かれているのを見て、その中から二つの漢字を取りました」。

最初の業務は、香港の某企業が製造したPBX(構内交換機)を輸入し、中国大陸で販売するという輸入販売でした。技術面で先進国を追いかけようとした中国にはその構内交換機に対してかなり大きなニーズがあって、その追い風に乗って、ファーウェイは急成長しました。しかし、輸入販売という事業はやはり成長できる限界があると感じました。自社の製品を作らないと、会社のコア技術を持てないし、いつでも中抜きされる恐れがあると任さんは判断しました。それで、1992年に社員から強く反対を受けているにも関わらず、すべての資金を交換機の開発に投入することを決意しました。当時の任さんは、5階のオフィスの窓の横に立って、社員に次のように言ったらしいです。「もし今回の開発に失敗したら、あなたたちは他の会社で職を探せばよい。私はここから飛び降りるしかないんだ」。幸いなことに、この開発が大成功し、その年に十数億円相当の利益が出たそうです。

ファーウェイの初めての危機

2000年のファーウェイは年間約4000億円の売り上げで、中国最大のハイテク企業に成長していました。任さん自身も、米国のForbes紙で中国第三位の億万長者にランキングされました。しかし、順風満帆に見えたこの時に、突然な不幸が立て続けに訪れました。

まず、プライベート面で、2001年の1月に中国の雲南省(ベトナムやラオスに接するところ)で暮らしていた任さんの母親が野菜を買いに行く途中で交通事故に遭い、重体になり、入院しました。その時の任さんはイランに出張していました。その不幸な知らせを聞き、極めて焦っていた任さんはすぐに中国に戻ろうとしました。ところが、イランから雲南省への直行便がなくて、数回乗り換えしなければいけませんでした。結局、任さんが戻った時に、母親は既に他界していました。

仕事面においても、困難に直面しました。2000年にそれまで任さんの右腕と言われた李一男さんという人は様々な理由で任さんと対立し、ファーウェイの競合会社になる「港湾科技」を立ち上げました。ファーウェイの取引先を奪っただけではなく、ファーウェイの社員、特にエンジニア達も大金を使って、引き抜きました。その結果、ファーウェイは一時期開発につまずいていました。同じ時に、海外からの攻撃も受けました。アメリカの大手IT企業のCiscoは知的財産権侵害でファーウェイを訴えました。それが原因で、多くの欧米企業はファーウェイとの提携を停止しました。

任さんの反撃

母親の逝去、仲間の離脱、国内事業の逆境、海外からの攻撃、かいつまんで言えば、21世紀の初めは、任さんにとって非常に困難な時期でした。その時期の任さんは毎日十数時間働いて、この局面を挽回しようとしました。一時期、うつ病になり、ガンも患いました。幸いなことに、二回の手術を経て、命を拾いました。

既に60才に近い任さんは運命に負けたくないという思いをもう一度奮い立たせました。トップレベルの専門家チームを組み、Cisco社との商談に行かせました。同時に、PR面でも、積極的にWSJなどのアメリカの大手新聞社の取材を受け、ファーウェイのイメージを向上させることを狙いました。そういった 努力は功を奏し、2003年の10月にファーウェイとCisco社は和解しました。その件でファーウェイの海外における知名度が大幅に拡大し、その後の海外事業展開にも繋がりました。ある意味、災いを転じて福となすでした。

元部下の李一男さんの「港湾科技」に対して、任さんはかなり強硬な手段を取りました。様々な後日の報道によれば、当時のファーウェイ内部に、「港湾科技を潰すことに特化する部署」があり、その部門の主なKPIは「港湾科技」の利益源を絶つことと、上場を阻むことだったそうです。そのKPIを達成するために、仁義なき戦い方もしました。例えば、「港湾科技」の顧客に対して、赤字が出るほどの低価格で商品を提供したり、時々無料で商品を提供したりもしました。それから、「港湾科技」の上場する前に運営資金がなくなることを狙い、知的財産権侵害で「港湾科技」を訴え、上場審査期間を伸ばしました。

結局、「港湾科技」はファーウェイの攻撃に負け、任さんとの和解を求めました。2005年の6月にファーウェイは「港湾科技」を買収しました。それで、ファーウェイは一つ大きな難関を克服しました。その後は、ご存知の通り、任さんが率いるファーウェイは日本でも事業を展開し、今や様々なポジティブな評判もネガティブな評判も伴う世界有数のIT企業にまで成長してきました。


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