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三国志の舞台 武漢の歴史を辿る


最近、中国湖北省の武漢市は、新型コロナウィルスが最初に流行した地域として世界的に知名度が上がってきました。日本において、「武漢」という単語は三国志や孫文が率いた革命などの歴史イベントで登場したりするので、少し聞き覚えがあるかと思われます。今回の記事では、その1000万人もいる都市のことをより知るために、歴史という軸で武漢を紹介したいと思います。

古代中国における武漢

北京の南、広州の北、成都の東、上海の西にある武漢は、ある意味、中国の真ん中にあります。長江沿岸でもあり、昔から様々な王朝にとって重要な交通要衝とされてきました。最初に今の武漢が占める地域に勢力を伸ばした中国の王朝は商朝(別称「殷」)という紀元前17世紀頃から紀元前1046年までの王朝でした。当時の都市名も区域の範囲も今の武漢と若干異なりますが、便宜上「武漢」と呼びます。

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紀元前1046年に、商朝が周朝に滅ぼされたことによって、武漢は周朝の諸侯(日本の「藩」に近い意味)の楚王国の領土になりました。楚王国といえば、原泰久さんの漫画「キングダム」にも主要な国の一つとして書かれていました。司馬遼太郎さんの小説「項羽と劉邦」の項羽もまさにその楚王国の人でした。

漢朝の初代皇帝の劉邦は紀元前202年に武漢を含む中国を統一しました。それから、武漢は一部の特殊な時期を除き、基本諸侯によって統治されるのではなく、王朝の中央政府に統治されるようになりました。現在の「漢字」や「漢民族」などの中華文化を代表する言葉は漢王朝の名に由来していることで、漢王朝の隆盛が伺えます。武漢も漢王朝の下で、重要な港町になり、繁栄しました。

漢王朝の後期の黄巾の乱を発端に、天下は乱れ、「三国志」によって語られている三国時代に入りました。その時期の最も決定的な戦いの一つの「赤壁の戦い」は紀元後208年に武漢の周辺で起きました。劉備軍の諸葛亮と孫権軍の周瑜が連合し、曹操の数十万の大軍を破ったという今の小説やドラマでもよく取り上げられる戦いでした。その「赤壁の戦い」の結果によって、曹操の魏、劉備の蜀、そして孫権の呉といった三か国が鼎立する三国時代に導かれました。ちなみに、その「赤壁の戦い」をベースにした映画「レッドクリフ」があり、その映画の主人公の一人は金城武が演じました。

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三国時代の武漢は、孫権の呉の領土にありました。223年に孫権の命令により、黄鶴楼(こうかくろう)という楼閣が武漢で建築されました。最初は軍事目的の建物でしたが、後に主に観光地になりました。その黄鶴楼は今でも中国で最も知名度が高い楼閣の一つとして、観光客は後を絶ちません。唐時代の詩人の李白は730年(日本の奈良時代の聖武天皇の年代)に武漢を訪れた時にも、黄鶴楼を詠んだ漢詩を残していす。 

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清王朝における武漢

李白が生きていた唐王朝から中国最後の王朝の清王朝まで1000年以上もの間、武漢は中国の最も重要な港町の一つとして、重要な軍事的かつ商業的な役割を果たしてきました。1860年に清王朝が第二次アヘン戦争で敗戦したことにより、中国は開国政策に切り替わり、外国との貿易が盛んになりました。それで多くの国は武漢で自国民専用の居留地を立ち上げ、そこに領事館や貿易会社、それに学校などもありました。日本の場合、20世紀の初めに旧三井物産などの商社も武漢で支店を開きました。

外国人が多くなることによって、武漢は経済的に重要な役割を果たすだけではなく、教育的にも、政治的にも、軍事的にも当時の中国を牽引するようになりました。例えば、1893年に今の武漢大学の前身となる学校が開校し、当時中国指折りの現代学校の一つでした。そこで外国人の教師が教鞭を執り、日本語を含む外国語を教えました。もう一つの例は、1891年に設立された「漢陽兵工廠」という主に小銃を製造する軍需工場でした。そこで作られた小銃は19世紀末から朝鮮戦争が終わる1953年まで、中国の主要な小銃であり、中国軍を代表する兵器とも言えます。

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近代の武漢

1911年10月10日に、清王朝に反する革命軍は武漢で反乱を起こしました。清王朝はその反乱を制圧しようとしましたが、結局失敗しました。その反乱を発端に、中国各地で革命が起き、翌年の2月に清王朝は滅亡しました。それによって、始皇帝から2000年も続いた皇帝制度が幕を下ろし、アジアにおいて史上初の共和制国家である中華民国が誕生しました。現在、その武漢で起きた反乱とその後の一連の出来事は「辛亥革命」(しんがいかくめい)と呼ばれています。今は台湾のみならず日本やアメリカの華僑コミュニティで毎年10月10日を辛亥革命記念日兼中華民国の建国記念日として祝賀活動が行なわれています。

本章は今まで「武漢」という名前を使ってきましたが、前述の通り、今の武漢市が占める土地は時代によって呼び方が異なります。最初に「武漢」という都市名になったのは、1926年11月でした。当時の中国中央政府は戦乱で暫定的に国家の首都を移さなければいけませんでした。それで中国の中心部にあり、交通が便利で、現代化も進んでいた場所に決めました。そこにあったいくつかの町(主に3つ)を組み合わせ、新しい行政区画として「武漢市」を誕生させました。今の武漢市も基本、当時の行政区画の領域を維持しています。

1957年に共産党政権の下の武漢では、「武漢長江大橋」(ぶかんちょうこうおおはし)という長江に架かる橋(鉄道用+道路用)が開通しました。共産党政権が始まって間もない頃であったことと、史上初の長江に架ける橋であったことで、当時注目を浴びていました。実は、その橋が出来上がる前は、長江があったので、中国の北部中心地の北京市から南部中心地の広州市まで直接鉄道でいけませんでした。北京から広州まで鉄道で移動したい時にどうしたかというと、北京から武漢まで鉄道で行って、武漢でフェリーに列車を乗せて、フェリーで長江を渡りました。その後、フェリーから列車を下ろし、鉄道に接続し、それから再び鉄道で広州まで行くという流れでした。

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今の武漢は、1000万人ぐらいの人口を有しており、中国中部の重要な工業都市であり、かつ文教都市だとされています。それに中国国内のおそらく最も繁忙な交通中枢としての役割も果たしています。しかし、否めないのは、経済成長や技術の発達の面で近年上海や深センなどの沿岸都市に追い抜かれつつあります。今回の新型コロナウイルスで世界に注目された武漢は今後どのように発展していくか期待しています。

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