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『愛の美学』 Season3 エピソード 1  「愛の尺度」(3567文字)

このシリーズでは、『性知学』という新たな学問領域を提唱している。フィロス』とは『ソフィアである、の示すところを、私たちが抱えるエロスの課題を通して、『愛』の本質を知ろうというこころみである。

今回の『愛の美学』 Season3 エピソード1「愛の尺度」は、私たちが普段使用している基本的なコミュニケーションに必要なツール、「読む」「聞く」「書く」「話す」の中で、「話す」と「聞く」ことについてお話を進めていく。


1)言葉の言語体系

Season2   エピソード10『愛の回転』でも示したが、下の図は、「読む」「書く」「話す」「聞く」という、基本的なコミュニケーションツールの言語体系をまとめたものである。

ご覧のように、円のなかを十字に切り分け、左右を分かつ縦のラインと、上下に分かつ横のラインを想定した。このそれぞれの言語ツールは、マッピングによってその位置が定められている。

すでに、「愛の回転」で解説したが、大切なのでもう一度簡単に説明しておく。

この左右を分かつライン右側、「読む」「書く」は、見える領域で、光や形あるものに関与するツールと捉えている。一般的に文字の読み書きは明るくないとできない。また、文字自体が形あるものである。

一方、左側の「聞く」「話す」は、見えない領域で、音や形なきモノに関与するツールであると捉える。一般的に言葉を聞いたり話したりするのは、暗闇でもできる。また、音という媒体なしでは困難という説明もした。

2)左右を分かつ縦軸

さて今回は、これらを踏まえた上で、少し異なる角度から解説してみよう。もう一度強調するが、円内部の十字には、大変興味深い意味がある。

ここまでの解説で左右の違いは、何となくご理解いただけただろうか。

では次の課題として、これら左右を分かつ縦軸ヴァーティカルライン自体には、いったいどんな意味があるのだろうか。

この縦のラインは、基本的に物事の過程プロセス状態ステイトに関与している。つまり一文字でいえば「ばける」である。英語で表現すると、change、grow、turn、state、become などになる。

ここで、言葉遊びのようであるが、「概念」と「概念」との違いや、「システム」と「システム」の違いがお分かりになるだろうか。

この違いを一言で説明するなら、「概念」は完成形結果であり「概念」はそれ以前の未完成の状態を示唆する。同様に「システム」は完成形で「システム」は未完成の状態である。

これについては、あまり考えなくても、理解はできる。が、この左右には大きな開きがある。

たとえば、「聞く」だけでは「読む」ことはできない。この左右の間にはけるための「プロセス」が必要となる。

「読む」ためには、当然「文字」を知っていなければならず、当然「書く」こともできなければならないだろう。「文字」が伝達には非常に大切になる所以ゆえんだ。

逆に「読む」から「聞く」にける「プロセス」は、「話す」ことが必要になる。「読める」が「聞けない」人は多い。特に本や文章は訳せるが、ネイティブスピーカーの言葉が聞き取れるようになるには、それなりのトレーニングが必要になるだろう。文法が得意であっても話せるようにはならない。日本の英語教育で多いのはこのタイプだ。

また、「話す」から「書く」にけるのも多きなギャップがある。話ができたとしても書けるようにはならない。これをマスターするためには「文字」を覚えなければならない。昔は識字率が悪く、読めない人々が日本にも沢山いた時代があった。

それと同様に、「書く」から「話す」にも異なる「プロセス」が必要になる。書いているだけでは話せるようにならない。話せるようになるためには「聞く」ことが大切だ。

さて、左右のギャップがかなりあることをご覧いただいたが、では、今度は、上下の関係はどうであろうか。

まさしく、この場合は、かなり親和性がある。書いたものを読む、そして、聞くはセットになっている。

しかし、これは、聞いたことがないと話せないのであり、書いたものがないと読めないのである。そうなると、この上下の関係性は、どのような違いがあるのだろうか。

3)上下を分かつ横軸

前回、シーズン2では、上下の関係を、上を個々人あるいは、公私の違いを私への問い掛けのように、やや曖昧な表現をしていた。しかし今回、この構造的な仕組みが明らかになったので、それを確認してみよう。

まず、そもそも、集団と公、個々人と私とはどのように異なるのか。つまり、「集団」対「個々人」「公人」対「私人」のようなニュアンスである。

まず、この問いに対し明確に答えない限りは、果てしなく議論が上滑りしてしまう。これは、言葉の定義以上に、その感覚的な使い方、あるいは慣習的な感じ方をもとにした説明をする必要がある。

「私」としたときに、この定義された「集団」の中に「私」という感覚はあるときもあるが言語感覚としては、いささか「個々人」の要素が強くなり、「個人」あるいは「私」という「なに者」かを強調できない感覚がある。「私人」も然りである。

では、もっとしっかりと明確に「私」を自覚させたいときに使う言葉が日本語にはある。それが「自分」だ。

「私」も「個人」も、「自分」とすると我が「身」に迫る感覚が強くなる。つまり「自分」であれば、「個人」や「私」と表現する以上に私事わたくしごとを指す感覚が強くなる。そういう意味で、ここでは、「私人性」を「自分」に近い言葉として設定している。ただ、近いというだけで、厳密には「私人性」と「自分」は異なる。

この二つの違いを、明らかにして、あえて図に示したのが、下の二つである。

始めに掲げるのは、個々人と集団の関係だ。

上図において、あえて内面を(私人性)とし、外面を(公人性)としている。これは、定義上、内面と外面という書き方で違いを表しているだけではあるが、本来は、下の図のように立体モデルに照らしてみると、全くその位置が異なることが分かる。

ここで見ておきたいのは、言語のツールは、全て結果を示している、という言語的な理由のために、「青の面」つまり、結果に投影されていることである。

それは、実は当たり前のことでもある。この4つのツールを使いこなす「者」。それが「私」であり、「自分」である。

そして「自分」は、「私」のことも「公」のこともある。その立場に合わせて言葉を使い分ける。上図では、「私人性」を(内側)、「公人性」を(外側)としている。

だからこそ、『理の面』を境にして、言語のツールが投影されているともいえる。

上下の関係性は、じつは「個人」と「集団」のように「単数」と「複数」のように単純に分けられるのだが、ようは、「個人」がすなわち「自分」ではないし、また、「単数」だからといって、「自分」一人という意味でもない、という意味を明確に理解することが大切である。

日本語は「単数」「複数」の意識がない。そのため、各々各人それぞれの「個々人」、「個々の人々」と「集団」の違いが明確になりにくいからである。だから「個人」は「自分」ではない。

また、「私人性」や「公人性」は「個々人」と「集団」を含むものである。この違いも明確にしておく必要がある。

これらの構造は、シーズン2エピソード10「愛の回転」でお話しているが、それを立体にまとめたものになる。

4)「愛の尺度」とは

『知の面』と『感の面』そして『理の面』の三つの側面(アスペクト)は、『愛の美学』の中心を形成する骨組みである。

ソフィア」を「フィロス」であるとするなら、『知の面』の「知」を示す「フィールド」が「愛」そのものであるということになる。

そして、特に『尺度』を示す「フィールド」があり、ここは「フィロス」と繋がりが深い。

この底支えする、『感の面』の規定部分には『気力』に繋がっている。この構造も後に語ることにするが、私たちが『愛』について考えを深めたりするには、『気力』が必要になってくる。

『愛』に限らず、「気力」はどんなときも必要になる。この「気力」がどのように賦活されているのか。これらについては、このシーズン3 エピソード5『愛の気力』で触れていく。

そして、『理の面』には『精神』の働きがある。この『尺度』と『気力』そして『精神』の作用により、『フィロス』の環境が形造られていくのだ。

つまり、立体構造では、おおむね下図のように、この三つのアスペクトの『尺度』『精神』『気力』の部分と『愛』が繋がりが深いことが示されている。




次回、『愛の伝達』につづく






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