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日めくり5分哲学『自由の哲学』を読む 第一章9

少し「あたま」を使って
命題について思索する5分間、
ホントの自由とは、何か…


 どんな行為も、その行為者がなぜそうするのかを自覚していなければ、自由な行為にはなり得ない。それはまったく自明なことである。それでは一体、理由がよく分っている行為と分っていない行為との間にはどんな違いがあるのか。このことを知ろうと思うなら、思考の根源と意味について、あらためて問わなければならない。なぜならわれわれの魂の働きである思考活動を認識することなしには、何かについて知るということ、それ故行為を自覚するということの意味を理解するのは不可能だからである。思考が一般に何を意味するのかを認識するとき、人間の行動にとって思考がどんな役割を演じるのかも明らかになるであろう。「動物にも備わっている魂を精神に作り変えるのは思考の働きである」とヘーゲルも述べているが、この言葉は正しい。その意味で、思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えているのである。
 われわれの行動のすべてが冷たい知性の判断から生じるべきだ、などと主張するつもりはまったくない。抽象的な判断に基づいた行為だけが最高の意味で人間的な行為になると考えるのは、私とはまったく無縁の立場である。とはいえ、われわれの行動が動物的な欲望充足から一歩でも先に進めば、直ちにその動機は思考内容と結びつく。愛、同情、愛国心などは、冷たい理解力の範囲内には収まりきれないような行動の動機である。心情こそがそのような行動を惹き起こすのだ、と言われている。確かにそう言える。しかし心情が行動の動機を直接作り出すのではない。それは行動の動機をふまえ、行動の動機を自分の領域内に取り込んでいる。私の意識の中に同情に値する人物の表象が現れたときに、私の心の中には同情が現れる。心情へ至る道は頭を通っているのである。愛もまた例外ではない。愛が単なる性欲の表れでないとすれば、われわれの愛は愛する存在についての表象に基づいている。そして、その表象が理想主義的であればある程、愛はわれわれの心情を充たしてくれる。ここでもまた、思考内容こそが心情の父なのである。愛は愛の対象の弱点を見えなくする、と人は言うかも知れない。しかしこの命題は逆転させることもできる。すなわち愛は愛の対象の長所に対して目を開かせる、と。無数の人たちが何も感じることなく、そのような長所の傍らを素通りしていく。その中のひとりがその長所に眼をとめる。そしてまさにそれ故にこそ、愛が魂の中で目覚める。一体そのような場合、その人は何を行ったのだろうか。多くの人たちが持たなかった表象を、その人だけが持ったのである。他の人たちには表象が欠けていたので、彼らは愛を持たないのである。
 だから問題を、われわれの望む仕方で扱おうと思う。人間の行動の本質を思考の根源から問い直すことの必要性がますます明らかにされねばならない。だからまず、この問いに向かおうと思う。

<命-1-9-1>どんな行為も、その行為者がなぜそうするのかを自覚していなければ、自由な行為にはなり得ない


<命-1-9-2>理由がよく分っている行為と分っていない行為との間にはどんな違いがあるのか

このことを知ろうと思うなら、思考の根源と意味について、あらためて問わなければならない。

「動物にも備わっている魂を精神に作り変えるのは思考の働きである」

思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えている

<命-1-9-3>愛もまた例外ではない。

他の人たちには表象が欠けていたので、彼らは愛を持たない、その問いとは






第二章1へつづく

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