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【雑記】多様性について考えてみた

「多様性の科学」という本を読んだ。大変興味深い内容だった。

一方で、「多様性」という言葉も今更な感じは否めない。ダイバーシティ&インクルージョンしかり、だいぶ前に流行って、実態はさておき、すっかり時代は次に移行している感覚もある。

とはいえ、こちらの本は、そのダイバーシティをより深く理解したという感想よりも、「結局、人間は、育った環境や文化・背景に多大な影響を受けており、良くも悪くもそれが生きる指針として成り立ってしまっている」という感想を持ったことだ。

それが突然、「その考えは、今は主流ではないのですよ」という時代でもある。今まで信じてきたものが、突然、「悪の権化」として扱われる可能性がある。誰だって悪者にはなりたくない。当然、発言を恐れるようになる。あるいは、何が正しいのかわからなくて、方向性を見失う可能性もある。

改めて、これは大変な時代になったなと、感じた。

分かりやすい例で言うと、先日、子供が中学生になるにおいて、制服を女子のものと男子のものとどちらを着用するか悩んでいる場面に直面し、自分の子供がそういう発言をすると思っておらず、対応を間違えてはいけないと動揺した、という話をきいた。

そういう意味では、我が子にも「男の子だから」「女の子だから」という発言をしないように育てた意識があることを思い出した。男の子だから女の子だからと言われずに育つと、本人たちは性別の違いというものにほぼ意識が向かなくなる。それが良いのか悪いのか正直わからない。ただ、そういう時代だから、としか言いようがない。

「自分」あるいは、「自分の指針」というものを明確にしておかないと、あっという間に、自分を見失う。そもそも最初から自分なんてなかったのかもしれない。それは否定できない。とはいえ、生きていく必要がある。自分が正しいと思った道筋を進む必要がある。

間違っていたと思ったら、戻っても良いとは思う。とはいえ、自分を見失ってはならない。「個の時代」とも言われる昨今だが、本当に厳しい時代となってきた。

「絶対的な価値観」がまだあった世代には、なかなか堪える。

現代の管理職は、この多様性の波の序章を浴びているに過ぎない。多様性というのはこんな生易しいものではない。本当に自分の体験にはない世界を知る必要がある。

自分と人は違う存在であると、改めて自覚をする必要がある。同じ言語を使っていても、意味も解釈も全く違うということを理解する必要がある。

まずは相手を知ろう。

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