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#05 枯れた榊と推し神さまの兆し


「兆し」をキャッチする

神さまに呼ばれるっていうこと。
中にはちゃんと「おーい」「ここにおいでー」とか、しっかり感じ取れる人もいるかもしれないけど、みんながみんなその感覚を研ぎ澄ませてはないとおもうから。
もうすこしふんわりと、この解釈について書いてみようとおもう。

まず神さまは、基本的に会いに来てもらうことをウェルカムとしている、というのが前提ね。地域にひらけたおうちが、「うちは気軽に寄ってくれてええんやで!」言ってくださってる。実際多くの人が賑わうおうち=神社さんと仮定して考えるとなじみやすいかも。

だから、よほど失礼なことがないかぎり、くるなって言われることはない。本人が体調不良のときとかにかぎり、「またにしたら?」っていうのはよくあるけれど。あと「タイミングは今じゃないよ」とかもあるかな。

実際じかに感じ取れないケースの場合、このあたりのコミュニケーション(あえてこの言葉を使うね)は、「兆し」としてあらわれる。現実で、わたしたちが受け止めやすい情報に置き換わって登場する感じ。

たとえば、今日1日外出するだけでやたらと特定の場所の地名を感じたとか(六甲山の広告をやたら見て、六甲山の話を人から聞いて、六甲山の名物を人にもらって、のような)。

もしくは、夢に見るとかふいに思い出すとか、懐かしい思い出の品がぽろっと出てくるとか、何でもいいんだけど「どうしてもその場所が気になるような気持ちになった」みたいな。

自分の主観、直感が大切。意図せずこの状態になった場合、わたしは「神さまが兆しを送ってくれている」とおもっている。

推し神社さまの推し御朱印帳

ひとつ、わたしの例をあげてみようとおもう。
わたしの推し神さまというか、推し神社さまのひとつが、京都府亀岡市にある「出雲大神宮」さま。詳しく書くと日が暮れて夜が明けるを3年くらい繰り返しそうなので、今回はさわりだけ。

わたしはこの神社さんで御朱印帳を授かって、今の帳面が7冊目になる。ずっと出雲の神さまのところで授かるには、理由があって。

ここの御朱印帳がいっぱいになると、「満願」といって、神恩感謝のご祈祷を受けられるんだよね。

あえて書くけれども「無料」で。

願意が特殊なご祈祷とはいえ、しっかり式典に参加させていただけるし(他の願意がある参拝客さんと並んでご祈祷を受ける)、お下がりも持ち帰らせていただける。然るべき初穂料を納めさせていただいていいくらいだよなあといつもおもっている。

だからこそ、感謝の気持ちを忘れず、満願でないときにも、ふらりとごあいさつでおじゃますることが多い。純粋に癒される、大好きな神社さん。

もちろん満願を達成したら新しい帳面を授かって帰っているし、お気持ちではあるけれど、本殿横にある御山(御影山)ふもとの神さまたちにも細かくごあいさつして、心ばかりのお賽銭を納めさせてもらっている。

3日で枯れた榊

あるとき、たまたまタイミングでここの御朱印帳がいっぱいになったんだけど、それ自体はよくあることだから、いつか行けたらいいなあとのんびり構えてたんだよね。
そうして朔日が過ぎ、神棚の榊を変えるタイミングがきて、榊を変えて、3日後。ちょうど3日後、忘れもしない。

左側(出雲の神さまのお札を祀っている)の榊だけが、みるみるうちに枯れていって。それがこちら!

もう驚くしかなかった、しおしおにさせてごめんね

ああもしかして、出雲の神さまが「はようきなさい」って言ってくださっているのかなあって。なんとなく腑に落ちて。
すぐ、次の週末の予定をあけて、お参りさせてもらったんだよね。
もちろん、「満願」のご祈祷もお願いして。

わたしの前に一組の家族連れさんが待たれていて、ああ、こことご一緒させていただくのかなと思いながら。少し時間がありそうだったので、さきに摂社の黒太夫社へお参りしてきたんだけど。
戻ってから自分の番がきて、ご本殿の中に入らせていただいたとき、

わたししか、いなかったんだよね。
まさかのマンツーマンご祈祷、ご家族連れさまどこへいかれた。

それはまるで、神さまのコンサートの、最前席アリーナを特別ご招待されたような感覚。誤解をおそれずに言えば、わたしだけに神さまが向き合ってくださるのだから、こんなに幸せなことはない。
ご祈祷の間も、祝詞をいっしょに唱えている間ももう涙が止まらず、神語を献上する自分の声が震えているのがよくわかった。
式の間、ずっとあたたかい気持ちがやまなかった。感謝しか浮かばなかったよね。

ずいぶんのんびりしていたわたしを呼ぶため、「榊を枯らす」行為で報せてくださったのが、最近一番驚いた兆し。

これは別に、特別な人の特別なシグナルとかでもなんでもないとわたしはおもっている。
気持ちを向けるか、受け取るかというのは、相手が神さまでも人でも、動物でも同じこと。その対象に関心をもって、繋がろうと手を伸ばすことが大切で。気持ちを重ねていけば、応えてくれるものがきっとあるとわたしは信じている。

そうして、「兆し」を拾い集めていくのを、できれば楽しみながら行えたらいいなと感じている。見えても見えなくても、聞こえても聞こえなくても、おじいおばあが愛情を向けてくれていることに変わりはないのだから。

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