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西藤定『蓮池譜』(現代短歌社)

 久しぶりに読書記録をつけることにした。もうブログは放置して何年にもなるけど、自分にとって短歌を詠むことは短歌を読むことにほぼ等しいということに気づいた。ここ最近もいい歌集がいっぱい出ていて、それらを読んだよと言う証明として、読書記録をつけることはいいことのように思えた。

 歌集の感想をツイッターでつぶやいたりすることは失礼のような気がするし、スペースやツイキャスでやっても文字には残らない。古典的な方法ながら、文章に纏めるのが一番いいことなのだろう。私自身も盗めるものはしっかり盗ませていただきたいと思っている。「虚心に、読む」というタイトルでマガジンを作り、歌集歌書の感想をnoteに書いていく。なるべく月1回の更新で済むようにしたい。

 本を読むことは楽しいが、文章を書くことは結構大変だ。未知な読者、未知な作者に出会えることを願って、少しずつ書いていこう。
西藤定『連地譜』がとどいたのはつい最近になるが、読みはじめてすぐ引き込まれてしまった。冒頭70ページ(第一章)までを読んで、その筆致の確かさに驚いた。

あとで付箋をつける作業をするとき、どの歌にこの歌集の魅力を託したらいいのかがよくわからなくなってしまって、少しうねうねと考えている。あくまで抄出というのは自分の読書体験の傍証にすぎず、連続して歌集を読んだときの感動は付箋で補えるものではない。西藤の歌集の場合、どの歌がいいというわけではなく、歌を通読して読んだときに自分のなかに沸き立ってくる「現代短歌を読んだ」、という感覚がとても心地よいのかもしれないと思う。

色彩をしばし冬木に貸し与えメジロの羽はふくらみゆけり

あかつきのさくら縛りのカラオケはゆるく潰えぬ日の出を前に

たとえばこれらの歌は破調字余りなどない、57577で歌われているのだけれど、綺麗に文語短歌を踏まえながら、それを現代短歌にアップデートしているとおもう。

一首目は「色彩」という言葉の選択がいいと思う。

色彩というのは大きな言葉で、「しばし」、というのは簡素な描写だ。全然関係ない文脈で引くと少し前に堂園昌彦の歌に、

ベランダに冬のタオルは凍り付きあなたのきれいな感情を許す /堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

という印象的なものがあったけど、ここで使われている「感情」というのはとても抽象度の高い言葉で、それを読者が想像するのはとても難しい。「色彩」というのも、ぱっと見て、それを想像するのは難しい抽象度の高い言葉だが、なんといっても格好よくて、現代に生きる歌人は使ってみたい言葉に入るだろう。うまく使えれば、超絶かっこよい歌になる。

この歌はその「色彩」という言葉をさらっと使って、見事に一首として成立させている。歌意としては、メジロが冬木に止まっていて羽がふくらんでいる、という程度のものだけど、(それを近代短歌っぽくやることはできるのだが)、この歌のように、「色彩をしばし冬木に貸し与え」というさりげない擬人法で、「色彩」という言葉をなじませるのが、ある種の現代短歌のかっこよさ、になるのではないかと思う。

もう一つ指摘しておくと、この歌は「色彩を」、と入ったあとに、「しばし冬木に貸し与え」、この二句目7のところが、「しばし冬木に」で3音、4音で読める。この「しばし」がすごく短いスパンで書かれていて、簡素でとてもよいのだ。難しい言葉を使わずに、近代短歌の写生的な雰囲気を踏まえながら、きちんと現代短歌に接続していると思う。

2首目、朝までカラオケをしていた、という歌なのだけど、あかつき「の」さくらしばり「の」カラオケは、と「の」で繋いでいくあたり、読み手に負荷がかからない良い表現だ。「さくら縛り」でなんだろうと思わせておいて、「カラオケは」で、あ、曲か、と思わせる。「ゆるく潰えぬ」、というあたりで、だんだん朝になっていって、カラオケがゆるく終わっていく感じか、と読者を納得させる。とても簡素だけど、既存の短歌の文法を使いながら、読者を「いま」の状況に導いていくのがいい。

こういう「ちょっとかっこいい現代短歌」のやり方をさり気なく使いながら、あまりくどくなく、やりすぎではなく、上手に自分の感情を歌に収めているのがよいと思う。一見端正な文語文体の歌のように思えるので、古典的な歌かな、と勘違いしそうになるけど、その内実は結構かっこいい現代短歌なのだ。

谷と谷であうところにダムがあり地図はみな暴かれた折り紙

がまの穂は暗渠の口にひかりたり善いものを愛するわけでなく

八朔をおのおの剥いてぼくたちの試論はついに試論どまりだ

河底のつぶてをひとつ攫っては小さく鬨をあげる海鳴り

どの歌も上手で、それでいてさらっとかっこいい。すごく丁寧に、また簡素に、一首一首が書かれていることがわかる。このパートのたとえば2首目、がまの穂、3首目の八朔、という表現の簡素さがひかる。八朔というのは、柑橘系(新潟にいたころよくたべた)の実だけど、その八朔を複数の人がそれぞれに剥いていく様子が「おのおの」という言葉で簡潔に表現されている。

この歌集は、非常に微量で、ぼくは最初気づかないほどだったけれども、作者の人生も投影されている。自分は歌を読むときには人生が大事という感じでもないタイプなので、あまり意識しなかったけれど、たとえばこんな歌もある。

歯のごとくフルート奏者並み居れば指揮者はすでに呑まれていたり

研修のたびに寝返り打つごとく小さくうごくわれらの順位

鮭のことことさらに言う弔辞なり長女の長男の任なれば

まだ眼鏡拭いているけど次のプロジェクトに次の先輩がいる

一首目は吹奏楽の様子か。おそらく学生時代のサークル活動の様子だろう。二首目は「入社前」と称された一連に入れられている。おそらく会社での入社前研修の様子。三首目は家族(この場合は祖父か)の弔辞を歌ったものか。四首目は入社した会社での様子。

作者がどんな仕事をしているのか想像はつかないけれども、大学を出て、会社に入り、なにかプロジェクトを担当しているということはおぼろげながらわかる。こういうところも現代短歌らしいと思う。おぼろげながら、作者の人生が見えるというあたりがいいのではないか。

私は最近総合誌を全然読めていないので、どういうベクトルでこの歌集が評価されたのかという詳細な論述は全く読めていないけど、最近の口語全盛の短歌に違和感を持っている読者の一人として、この歌集の誕生を素直に喜びたいと思う。現代の口語短歌は永井祐を中心として、論理的な整備が続けられているのだろうけど、全く異質なベクトルを持つこういった戦後短歌や近代短歌というところから、現代短歌に接続しようとする歌人にとって、その作品の新しさを発見するための批評の言葉がまだ追いついていないという側面があるように思う。

古臭い、日常語ではない、自分の使う言葉ではないというところから、どのように転換を図り、文語歌人(自分を含めてだが)の作品を現代短歌の一部であるということができるかという領域には、まだあまり多くの答えを出そうという歌人が少ない。

たとえば、松村正直の栞も読んだが、やはり歌人の人生に紹介の中心をおいた文章だった。私自身は、人生に比重を置くというより、ことばと人生の交錯するところでいかに独自の表現を模索するかというところで、勝負をかけたいと思っている。

だからこそ、なのだけれども、一首一首の表現の新しいところ、を言葉に即して丹念に分析して、どこが現代短歌なのか、という文章を書くのは意義があることのように思えた。

とりあえず、第一回目としては無理なく、こんな感じで終わらせたい。




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