小説『炎天下の幽霊』

『幽霊 幽玄 眩しい』が診断メーカーのお題で出たので、それに基づいて書かせていただきました。自分なりに、ありきたりじゃない世界観を作ること、お題をクリアすることを心掛けました。つたない作品ですが、お楽しみいただければ幸いです。

『炎天下の幽霊』         アオ


茹だるような夏だった。
「相変わらずよく出来ているな」
 と俺は街を見渡しながら独り言ちた。
ジリジリと焼けたアスファルトから立ち上る熱気、額から頬を伝って顎に垂れる汗。ゆらゆらと景色を暈す蜃気楼。ペンキで塗ったような青い空にソフトクリームみたいな入道雲。点滅していない信号、壊れて動かない車、止まったままの電車。明かりのついていない倒れたビル、倒れた電柱、人のいない大通り。
これは飽きるほど見て、何度も遊んだゲームの中の世界だ。NPCやこの世界の物は姿形が変わらない。完全な作り物の世界だ。五感をフルに使って遊べる、バーチャルEXというゲーム機を使っている。ヘッドギアとイヤホン、専用のゴーグル付きのマスクに、体の各所に電極をつなぐことで五感にその世界の色、音、臭い、感触、味を伝えることができる。モンスターに切られた場合にもちゃんと痛みがある。そしてPCの姿も加齢やイベントによって変化する。それだけでなく、逆にこちらがしたいと思う動きを体に流れる電気信号を受信することで、ゲーム世界に反映できるといった優れものである。
「エラーなし、オールクリアか」
俺は異常を伝えるアイコンが出現していないのを、手首につけたバングルを押して確認する。バングルはこのゲームのコントローラーである。
そしてここは他のプレイヤーと交戦ができる『崩壊世界』というゲームを読み込んだ、その世界……のはずなのだ。
五年前に交戦できるサービスが終わったのは知っていた。しかし自分が訪問した街には行けるし、手に入れた武器や食料なども使うことができるらしい。またNPCとの交流もある程度できるようにし、クエストも開放していると聞いた。そこで俺はログインしたのだ。
「なんで誰もいない……?」
プレイヤーがいないのは分かる。しかしどこにもNPCがいないのだ。これはおかしいと俺も十分程度で気が付いた。故障かなと俺は思い、ログアウトしようとした。
だから俺はゲームから意識を切り離し、現実に意識を戻すためにバングルをもう一度叩いたが反応がなかった。
「は……?」
何をしても反応を示さなくなったそれは、まるで歩道の上に転がっている蝉のようだった。何をしても反応がないバングルだけでなく、ゲーム中で使える通信機器の類は全滅だった。現状を理解できず、俺は呆然と突っ立ったまま太陽を見上げていた。突如、そんな俺の顔に影がかかった。
髪がさらりと揺れたのが見える。目と目があって、顔を覗き込まれたのだと知った。大きな澄んだ瞳で俺を見つめながら
「ねえ、君幽霊ってやつ?はじめて見た」
瓦礫の上の少女が俺に不思議そうな顔で尋ねた。片手には使い込まれたノートを持っている。白いワンピースが黒い長髪に映え、太陽の光をはね返しているため眩しく見える。ただ格好と髪型から、俺は貞子をぼんやりながら連想した。
「そっちこそ幽霊……みたいな見た目してんじゃん。てか、なんで俺が幽霊なんだよ」
「夏に幽霊はつきものだって聞いたから」
 少女はふざけるでもなく、真剣なまなざしをしていた。
「は?」
 俺は少女の言っていることがよく分からなかったが、誰かいるという事実に安堵した。胸を撫で下ろしながら、少女も自分と同じように来たんじゃないかと思い至った。
「あんたも俺みたいに運悪く、精神がゲーム世界から帰ってこれなくなった人?にしては、装備が貧弱……」
俺は自分が装着している防弾チョッキ、安全靴、ヘルメット、一発だけ銃弾の込められた拳銃をもう一度確認してから少女を見た。サンダルにワンピース、それだけだ。こんな装備あったのだろうか。
「ゲーム?」
きょとりとした顔で少女は俺を見つめる。状況を理解していない、とその瞳は語っていた。
「……あんた記憶とかないの?ここに来る前に何してたとか」
「記憶はないかな。というか、あたしの名前はあんたじゃない。美しいに月って書いて、美月っていうのよ。あんたは?」
態とらしく『あんた』という言葉を強調しながら美月は訊いた。
「詩音。ポエムの詩に、音楽の音」
「詩音、か。さっきも言ったけど人間をここで見たのははじめてなの。嬉しいな」
ニコニコと人好きのする笑みを浮かべて美月は言った。そういう美月は必要最低限以上のコミュニケーションが取れていて、人を初めて見たという発言のチグハグさに俺は首を傾げた。でも覚えていないだけで、コミュニケーション能力自体があるのならこういうものなのだろうか。
「美月は人と初めて喋るっていう割には、会話がちゃんと成立するけど」
「そうなの?何にも覚えてないし、初めてしゃべるからそういうの分からないよ」
ふう、と美月はため息をついた。
「随分とあっさりしてるんだな」
「んー……結構、あたしここでの生活好きなんだ。街以外ないし、ここから出られないけど、ひどく安心するし別に出ようとも思わないよ」
出られないという言葉が俺に突き刺さった。
「出られねえの?」
美月は少し目を細めると
「……あたしはこの街の端から端まで何度も歩いた。でも同じ場所に戻ってきてしまう。横がだめなら上下ってことで土を掘ったり、ビルに上ったりもした。でもどこにも出入りした痕跡どころか、人間がいる痕跡がなかった。どこまで掘っても土は固くてほんのり湿ってるだけだった」
 と言い切った。
「でもゲーム中断が中からできないなら、外からしてもらえれば出来るはずなんじゃ」
「誰が中断してくれるの?」
「それは家族とか……」
 俺は家にいる兄貴やお袋、親父の顔を思い浮かべた。僅かに動かしたつま先が小石に当たって、小石はカツンという音を立てながら転がっていった。
「じゃあ、中断してくれる人がいなかったら?どうなるの?」
「体調が悪くなったら帰れるようになってるし」
「その機能も壊れていたら?」
 その言葉に俺はぞっとした。本来ならゲームからログアウトできなくて死ぬことはない。だって頭や首、手足につないだセンサーが反応して、バイタルサインに異常が出た場合には即刻現実に帰れるようになっているのだ。それと同時に近くの消防署や病院に連絡がいくような仕組みとなっている。今まで事故があったという話は聞かない。しかし目の前にいる美月は随分と長い間、ここから出られていないというのだ。
 俺の嫌な予感と想像を突き付けるように
「詩音もあたしも、その機能が壊れて意識だけゲームの世界に取り残されて死んだ、とかじゃないの?」
「っ、そんなことあるわけないだろ!」
 俺は不安をかき消すように、強い口調で否定した。もしそうなら美月のことがニュースになってしかるべしじゃないか。
「じゃあ、あたしのことはどう説明できるの?君はどう考えてるの?」
 美月は純粋に質問をしているだけなのだろう、言葉には純粋な疑問の響きがあるだけだった。しかし俺は恐怖から逃れるように、疑念を頭から振り払うように美月から逃げ出した。
「あ、ちょっ、その服脱がないと熱中症になるよー」
 そんな声が背後から聞こえたが俺は無視した。


 〇〇〇〇


 全くもって美月の言うとおりだった。この街から俺は出ることができなかった。俺はビルの陰に入ると、シャツで垂れてきた汗を拭いつつ大の字になって寝ころんだ。そして運動靴を足だけを使って乱雑に脱ぎ捨てた。
 戦闘用装備はとうに脱ぎ捨てて、俺は半そでシャツにひざ下までの長さのズボンに運動靴という初期装備に着替えた。非現実と思えないほどにここは熱く、徘徊するにはあの。装備が邪魔すぎたからである。
「マジでどうしよう」
 白い石粉のついた瓦礫の上で俺は頭を抱えた。ログインしてから数時間以上たつというのに、意識は現実に戻らない。美月の言うように、現実に俺は帰ることができないのだろうか。家族のことを思い浮かべると涙が眼の淵に溜まって、耳の方へ零れ落ちた。耳の中に入ろうとする涙を指で拭っていると
「詩音」
 と遠慮しているような声音で美月が俺を呼ぶ声がした。慌てて起き上がると十メートル程度先に、古びたノートを胸に押し付けるようにして立っていた。
「なんだよ」
「……さっきは、ごめん。別に傷つけるつもりじゃなかった」
 目を逸らしながら美月は小さな声で言った。
「別にいーよ」
「…………怒ってる?」
 美月は怯えたような目つきで俺を見ながら尋ねた。
「別に怒ってない」
「じゃあ、傍に行っていいかな?」
 不安げに美月はそう尋ねた。
「別にいいけど……急に何」
「詩音が行ってしまってから急に悲しくなった。どれだけ慣れたつもりでも、やっぱり一人は寂しいから。覚えてないけど、すごく寂しいって感じたの…………」
 その眼差しには深い孤独が見えたから、俺は黙って美月の座るスペースを作った。何日間か一人で生きなければならないだけで、人間は気が狂うという。それを耐え忍び、生きてきたのか…………凄いなという気持ちとよく気が狂わなかったなと感心していた。美月には言わなかったけれど
「ありがとう」
 俺の横に美月は腰かけた。俺たちは何も言わずに黙って座っていたが、俺は空を見ながらポツリと言った。
「ここには夜とかないんだな、ずっと太陽の位置が変わらない」
「うん、ずっと昼のまんまだよ。ただ時折、雨が降る。もうちょっとしたら強い雨が降るよ」
 美月が空を指して、確信しているという声音で言った。一足す一は二であると、教えているかのように。しかし空は疎らに雲が浮いているだけで、雨が降りそうな予兆を俺は一切感じられない。
「本当に降るのか?」
「降るよ」
 怒るわけでも、むきになるわけでもなく、淡々と美月は言った。そして
「準備しようか」
 と言って立ち上がった。パンパンと音を立ててスカートの汚れを叩いてから、サンダルをじゃりじゃりという音を立てながらしっかり履いたようだった。そしてワンピースを脱ぎだしたので俺は驚いた。
「何してるんだよ!」
 俺は咄嗟に顔を背けて叫んだ。某有名漫画でこんなシーンあったような気がするけど、俺は悪いことしてないよな?と不安になりつつ目を固くつぶった。
「シャワーの準備だよ。それにワンピースの下は薄手のシャツとズボン履いてるから大丈夫」
「そういう問題じゃないって。何をするとか、予め言ってくれないと俺はここの生活とか知らないから困る」
 俺は目を逸らしたまま、努めて口調が荒くならないように心掛けつつそう言った。色々あって頭が疲れてきたし、混乱しているからなのか、頭の隅で円周率を唱え始めてしまっている。
「ああ、それはごめん。えっと、この街では時折、通り雨が降る。水道とかないし、行けとか川もないからそれを利用しないと体の汚れが落とせない。あれだけ汗かいてたし体、ベタベタしてるでしょ?」
 確かに体はベタベタしていたし、砂ぼこりで汚れていた。
「そういうのは早く言ってもらわないと」
 俺は円周率やピカソの本名を引っ張り出してこようとする脳内を宥めつつそう言った。
「ごめんごめん、一人での生活に慣れすぎて。じゃあ、石鹸とかタオル取りに行ってくるから」
 スタタタタと軽やかなサンダルの音を静かすぎるビル群に反響させながら美月はどこかへ走り去っていったようである。……本当に嵐のような奴だ。俺は大きく息を吐き出して、もう一度空を見上げた。しかし雨が降りそうだとは思えない。
 俺は改めて辺りを見渡してみた。誰もいない死んだ街だ。暗がりにある罅の入った大きなガラスに自分の姿が映りこんでいるのを認めて、俺はそこに近づいた。いつも通りの自分の顔が映っていた、どこまでも精巧に作りこまれた偽の世界に改めて感心すると同時にため息が出そうになった。ここに来てからいったい何度、ため息をついているだろう?ため息をつくと不幸になるという言葉を思い出し、俺は口を噤んだ。
「何見てるの?」
 という声と共に、美月の姿がガラスの中に映りこんできた。
「いや、相変わらずよく出来てるなって思ってさ」
「何が?」
「このゲームだよ。まるで現実みたいじゃないか。本当は存在しない偽物の世界、仮想現実でしかないのに」
 ガラスの中の美月の顔が不愉快そうに歪んだ。
「ここは現実だよ」
「ゲームの中の世界だぞ?」
「それでもここだって現実だよ。暑いし、疲れるし、お腹も空くし、眠くなる。ちゃんとした世界で…………現実だよ」
「でも作り物の世界だろ」
「ここじゃない場所のものだって、家や建物、乗り物……作り物でしょ。ここを蔑ろにするようなこと言わないで」
 静かな、しかし確実に怒気を孕んだ声音に俺は口を閉ざす。美月がどうしてこの世界にそこまでの執着を見せるのか分からない。……これはこの世界で何年も過ごしたゆえのものなのだろうか。俺は急に視界が暗くなったことに気が付いて、空を仰いだら濁った色をした雲がどこからともなく湧き出て態様を覆い隠していた。
「……はい、これ」
 そう言って美月は俺にタオル、シャンプー、石鹸を手渡した。
「ありがと」
「……雨が止んだらまたここに集合。雨が降る前に服はちゃんと濡れない場所に避難させとかないと、大変なことになるから」
 ぶっきらぼうにそう言うと、美月はサンダルの音を響かせながらどこかへ行ってしまった。俺はその背中を見送ってから、先程の大きなガラスのあるビルへ入り衣服を脱いだ。誰もいないとはいえ、オフィスビルの入り口のような場所で素っ裸なのは得も言われぬ恥ずかしさがある。落ち着かないな、と思いながら隠れるようにしゃがみこんだ。黙ってしゃがみこんで、別に今服を脱がなくても良かったのではないかと俺は考える。そして服をもう一度着ようかと思い、畳んでいた服を手に取った時、ザザアアアアアアという水の音が響いた。慌てて窓の外に目をやると、滝から水が流れているような勢いで雨が地面に叩きつけられていた。俺は暫くあっけに取られていたが、急いで石鹸一式を持って外へ飛び出した。
「冷たっ」
 その冷たさに思わず声が出たが、文句は言っていられない。正しく天然のシャワーだな、と思いながら体で石鹸を隠すようにして泡立てて泡が雨で流れ落ちる前に急いで汚れを落とした。


 〇〇〇〇


 美月は確かによくこの街のことを知り尽くしていた。どこに食料があるのか、武器や生活用品があるのかを熟知していて、ずっとこの街で生活していたことを伺わせた。それだけではなく普通は気づかないような隠し通路、抜け穴…………ありとあらゆることを知っていた。なんでこんなことに気づいたんだろうという暗号まで解いていて驚いた。
軍用レーションや缶詰は崩壊した工場の地下にあり、生活用品はこの街の各所に散らばっているのを工場の隅に集めていた。武器はこのゲームの拠点となる軍用基地にあったが、使い方がよく分からないから使っていないとのことだった。なので軍用基地で俺はナイフ、バールをすっかり軽くなったリュックに入れた。俺はあれこれと武器を見比べるために、棚やボックスと言ったものを動かした。その際に懐中電灯が転がり出ていたらしく
「あ、懐中電灯。これ結構、電池の減りが早いやつだけど、無いより全然いいから入れておいて」
 と言いながら、美月は俺に懐中電灯を三本差し出した。俺はあまり物が入っていないためガポガポになっているリュックに二本入れて、一本はリュックに結び付けた。
「そんなもの何に使うの?」
 至極不思議そうな表情で問う美月に
「ちょっと思い当たることがあるんだ」
 とだけ俺は言った。実際に合っているかどうかも分からないし、使えるのかも自信がなかったからである。俺は美月に建物が傾いたり、鍵がかかっているせいで開かない扉がないかと尋ねた。するとそういう扉は大体どの建物にもあるらしく、美月は軍用基地の大きな扉を指さした。確か、俺がプレイしていた時はここは廊下につながる扉だったはずだ。そう思いながら俺は扉と壁にある僅かな隙間にバールの切っ先を入れた。
「何するの?」
「何って……ここまできたら分かるだろ。扉を開けるんだよ」
 と言ってから俺はバールを握る手に体重をかけるようにして、てこの原理で扉が開くようにぐっと押した。するとバキリという鈍くも鋭い音がして、扉の鍵が壊れバールの隙間から廊下が見えた。
「扉も開いたし、中見よう」
 と言って俺は扉を持ち上げ、人が通れる隙間を作り、その中へ体を滑り込ませた。美月は唖然とした顔をしていたが
「来いよ」
 と俺が言うと、黙って内部へ足を踏み入れた。
「ここもかなり暗いな」
 と言いながら俺は懐中電灯のスイッチを入れた。するとジーという音を立てながら、かなり強い光線が飛び出した。なるほど、美月が電池の減りが早いといったのも頷ける。これはかなり電力を消費するだろう。俺は手あたり次第に廊下の扉の取っ手を回していく。ガチャガチャという音を立てて、開かない扉を見つけるのは容易だった。俺は黙って扉を壊し、中に入って物を漁ってを繰り返すも
「開かない……」
 中には開かない扉もあった。こういう時銃が使えればな、と俺は思う。
 本当は銃でドアを破ることができれば、もっと分厚いドアだって破ることができるのに。しかし銃の手入れや、どの銃にどの弾を入れるか、どう扱えばいいのか、という重要な事項について俺は知らない。というのも現実世界で銃を手に入れた場合の悪影響を考慮すべきという意見が出たらしく、〔銃を使う〕〔ナイフで攻撃する〕というコマンドを押すと光と音と衝撃等が演出されて撃ったことになる。ついでにプレイヤーには攻撃できず、物や敵キャラクターのみに攻撃ができるという設定なのである。
とはいえ、銃弾が一発込められた拳銃を俺は一丁持っている。引き金を引けばいいことは分かるが、一発だけなんてどう使うのか……持て余して部屋に置いてある。
もし機関銃が使えたらこういう時は便利なのにな……と思いながら俺は固く閉ざされた扉を思いきり蹴り飛ばした。
「…………怒ってるの?」
 と恐々といった様子で美月は俺に話しかけた。
「ん?いや、今の衝撃で開いたらなって思っただけ」
「そっか」
 と言った美月は目を伏せており、そこに少し怒ったような色が滲んでいた。
「どうかしたのか?」
 美月は躊躇ったのちに恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……なんかやだなって思って」
 微かな、下手すれば聞き逃してしまうだろう程に小さな声で美月は言った。
「何が嫌なんだ?」
「扉を壊してるのが嫌……」
「なんで?」
「なんでってここが大切な場所だからだよ」
 平然と言う美月に俺は違和感を覚える。
「大切も何もここは…………前も言ったようにただのバーチャル空間だ。美月はここから出たいって思わねえの?こんなところ憎いって思わねえの?」
 俺としては当たり前のことを言ったつもりだったのだが
「そんな…………そんなひどいこと考えないよ……」
 と奇妙に白くなった顔で美月は言った。その声が震えていたから俺は驚いて言葉が出なかった。
「ここは……あたしはここしか知らないけど、大事な場所なの。あたしにとって なくてはならない場所なの」
 そう言うと紙のような顔色のまま、道を引き返していく。俺は意味が分からないし、なんでだよと思ったけれど美月を目の前にしてそんなことは言えず、黙って俺は後ろをついていく。そして美月は基地を出て、五分程度歩き、比較的綺麗なビルにするりと体を滑り込ませた。
ここが俺たちの拠点である。ここには一週間、下手すれば二週間は暮らしていけるぐらいの物資が揃っている。
それだけでなく、損傷の少ない家具等を集めて自室を作っている。俺は入れさせてもらえなかったが、俺の部屋を作るのを手伝ってくれた。ソファ、机、ベッド、清潔な服やシーツの場所を教えてくれたから二人で手分けして運んだ。美月の部屋と近い方が食料を取りに行ったり、緊急事態があったとしても対応がしやすいからいいだろうという意見が一致したので俺の部屋は美月の部屋の隣の隣の隣になった。このビルが比較的綺麗とはいえ、やはりこの街の設定は災害によって壊滅した都市。故に壁に亀裂の入っていない部屋というのがあまりないのである。
美月は黙って自室へ入っていった。俺は黙ってそれを見送ってから、自室に入りベッドに倒れこんだ。
「変な奴」
 俺がそう呟いて枕に顔を埋めたまま目を瞑っていた、そのうちにいつの間にか眠っていたようであった。


〇〇〇〇


ここでの生活も随分慣れた。時計もなく、太陽が動くこともないから時間は分からないけれど、もう一か月は経っているんじゃないだろうか。そんなことを思いながら俺は思いっきり伸びをする。それから美月の部屋に行って、トントンと扉を叩いたが返事はなかった。美月は黙って何かをしたり、何処かへ行くことがある。今回もどこかへふらっと出かけたのだろう。
俺は汗ばんだ後頭部を掻きながら、自室へリュックを取りに向かった。その際に非常階段へ立ち寄る、ここにいることも時々あるからだ。しかしそこには誰もいなかった。そのまま、扉を閉めようとした時だった。死んだようになっていたバングルがチカチカと瞬いて、ピピピピピピという甲高い電子音を紡いだ。俺は慌てて食い入るように見つめた。
〔こんにちは〕
 と電子音で紡がれた言葉が響く。このバングルは起動した際、声紋でパスワードを開ける仕組みになっているのだ。俺は震える声で
「こんにちは。こちら詩音」
 と応答した。するとピコーンという幼児向け玩具から響くような間抜けな電子音がした。
〔久しぶり、詩音。ようこそ〕
 と返事があった時、俺は目頭が熱くなった。この生活を終えて帰れるのじゃないかと思ったからである。
「ゲ、ゲームソフトとの同期を開始」
〔ソフトを確認。同期を開始〕
 ウィィィィというモーターの回る音とともに俺の心は高まっていく。しかし
〔接続、せ、接、続…………不安、定……中断〕
 という音と共に辺りは再び静寂に包まれた。それから俺が懸命に叩いたり擦ったりしても、反応することはなかった。胸がふさぎ、一か月前の絶望が再びやってきたようであった。光が見えたかと思って手を伸ばした瞬間に消えてしまうのは辛い、こんなことならずっと諦めたままでいたかった。そう思い、俺は頭を抱えた。顔を伝うのが汗なのか涙なのかもう分からなかった。
その時に、胸元でカサカサという無機質な音がした。この服に何かを入れた覚えはない。不思議に思いながら、俺は胸元を探る。
すると紙切れが出てきた。そこには何らかの文字が書いてある。ただし殆どは文字化けして、読むことができない代物であった。しかしその中に意味のありそうな、文字列を見つける。
【865trtxdrt3er…………既存データ……iuyhjikjf896rfqad…………現在公開されているクエストについてdip@;どうやら誰も見つけていないクエストがあるらしい…………uhg]:azaq】
 誰も見つけていないクエスト?このゲームは隠し要素が多いことで有名だけど…………しかしこの紙、さっき起動したときに入ったのだろうか。
美月はビルの屋上の手すりに腰かけていた。儚げな雰囲気を纏い白いワンピースを風に靡かせる美月は幽霊のようだ、と俺は思った。その愁いを帯びた表情も幽霊らしいと思わせる原因なのだろう。
炎天下の幽霊。そんな言葉が俺の脳裏をよぎった。
炎天下と幽霊ってなんだかちぐはぐなイメージだなと思いながら俺は美月と同じように空の雲を目で追った。雲というのは煙とは違う、確固たる存在感があるように見える。しかし煙同様、触れることはできない。ただの水蒸気の塊。それなのにどうして宝石のように人の心を捉えて離さないのだろう、と思いながら俺は澄んだ青と白のコントラストを見ていた。
そういやこうやってのんびりと空を眺めるのは何時ぶりだろう。
「あれ、詩音いつのまに来てたの?」
 のんびりとした声で美月は俺の名前を呼んだ。俺は美月と目を合わせる。黒曜石のようなキラキラとした瞳だと俺は思う。
「ついさっき。雲、見てたの?」
「うん。ここからこうやって景色を眺めるのが好きなんだ」
 美月は古びたノートを抱えたまま、はにかんだ。一陣の風が吹いて美月を揺らす。その姿はどこかで見た絵のようにすら見えた。
「……横行っていい?」
「いいけど。なんでそんなこと尋ねるの?」
「…………なんとなく?」
「なにそれ」
 と言って笑う、美月の横に俺は腰を下ろした。美しいその背中を見ていたら、何とも言えず寂しい気持ちにじなったなんて伝えたら美月はどんな顔をするだろう。
「あの雲、リュックみたい」
 そう言って美月の指した方を見ると、確かによく似た雲が浮いていた。
「じゃあ、あっちは猫か」
「ほんとだ、猫に似てるね」
 美月はゴソゴソとワンピースのポケットに手を突っ込む。すると使い古されたペンが出てきた。それに急いで何かを書き込むと、俺に隠すようにして閉じた。
「何かいてるの?そういや、それいつも持ってる気がする」
「…………内緒」
「そう言われると気になる」
「…………駄目だからね?」
 ちょっと睨まれて、俺は黙って肩を竦めた。


 〇〇〇〇


 三十度を超えていないとはいえ、エアコンも扇風機もないし不愉快だ。そう思いながら俺は体を起こした。温度計には摂氏二十八度と表示されている。
 バングルが若干反応するようになってから、バングルはたまにチカチカと瞬くだけで反応らしいものは見せない。しかし例の紙が俺に届くようになった。それは俺の知っている内容であったり、知らない内容であったりした。そしてその紙の量は日毎に多くなってきていた。
 俺はまだ美月にこの紙のことを言えていない。言った方が良いのかもしれない。しかしこの世界が作りものだと言われることを極度に嫌う美月に、そのことをうまく伝えられる自信がなかった。なので紙はベッドの隅に押し込んで隠している。俺はさっき届いたばかりの紙を広げてみる。
【pl;l98x…………特定の曜日、時間に場所を指定してログインしないと会えない…………poiyg98……軍事工場、いや第二クエストのビル?poiuygghjksocookie…………隠しクエストを上手くできたらどうなるの…………】
「分かんね」
 俺は紙を畳みなおして押し込んだ。今、俺がこうやってゲームの中にいる間も外では誰かがこのゲームにログインしてるんだな…………そう思うと悲しくなった。外の世界で今は何時なのだろう、俺の体はどうなっているのだろう。流石に死んだら、脳波が途切れるはずだから…………ここに自分は存在できないだろう。多分だけど。でもこんなに長い間、ゲーム用の機器を体に装着していると考えるのも現実的でない気がする。
このゲームが禁止されていないということは、俺は死んでいないのだろうか。でも意識が現実に戻らないゲームなんて禁止されてしかるべきじゃないのか?
「美月が言ってた通り、考えるだけ無駄なんだな」
 考えても考えても何も変わらないんだから。…………でも一人でこうやって部屋にいると、余計なことまで考えてしまう。それに退屈だ。美月は今頃何してるのだろうか。
 暇だし、会いに行こうかな。そう思って俺はベッドから起き上がり、亀裂の入った廊下を歩いて美月の部屋の扉を叩いた。しかし返事はない。眠っているのかな、と思いながらドアノブを捻ると僅かに開いた。流石に部屋主がいない間に入るのは憚られるな、と思い引き返そうとしたところで俺はノートに気づいた。いつも美月の持ち運んでいる砂で汚れたクリーム色のノートである。どうやら机の上から床に落ちたようだった。
人の部屋に入った上に、ノートの中身をみるなんていけないことである。分かってはいたが、目の前にあるのを見るとどうにも見たくなる。ノートを触ると異様に丈夫であることが分かった。端を千切ろうとしたが、びくともしない。ゲームの中のアイテムだからだろうか。銃器か何かあれば傷ぐらいならつけられるかもしれない。こんなボロイ見た目してるのにな…………面白いなと思いながら俺は改めてノートの表紙に手をかけた。
…………少しだけなら、と俺は心の中で言い訳をしながらそっとくたびれた表紙をめくった。そこに書いてあるものを認めてから俺はパラパラと頁をめくった。捲っても捲っても書かれているものは同じもののようだった。てっきり日記か何かかと思っていた俺は驚いた。
そこには短歌がびっしりと書かれていた。上手いかどうかは俺に分からなかった。それでも短歌というものに積極的に接してこなかった俺には新鮮に写った。

[五月雨傘錆びていき学校にもう行けないと紙ばらまいて
王様になった記念にワイン開け執事に毒見をさせて笑う
五時過ぎて誰もどこにもいない夏靴の音だけ響く似非摩天楼
影と踊る衣は雨粒観客は入道雲で拍手は雨音
クッキーを齧った歯型雲に似て眺めていれば他人になって]

 一つ一つなぞっていくうちに俺は、このノートに書かれている短歌にはかなり細やかな記述がなされていることに気が付いた。俺と出会う前、出会った日、出会ってから何があったかが詠まれていた。まるでセーブデータみたいだ、と俺はノートをしげしげと見ながら思った。
 一週間前のところまで目で追ったところでひょいっとノートが取り上げられた。
「勝手に人のノートを見るなんて信じられない!」
 ノートを抱きしめながら顔を真っ赤にして美月は怒っていた。
「え、あ……っ、ごめん」
「ひどい、見ないでって言ってたのに!」
 随分と美月は感情的になっているようで、顔を掌で隠しくぐもった声で何かを言っている。
「興味があって…………出来心で」
「興味があったからって見ていいわけじゃないじゃん!」
 全くもってその通りである。
「ごめん」
 と謝ったものの、そっぽを向いたまま美月は詩音を部屋から閉め出そうとした。
「で、でも俺すごくいいと思ったよ。短歌とか本当によく知らないけどなんか生き生きしてるっていうか、優しいっていうか、幽玄っていうか、綺麗だなって思ったよ!」
 扉が完全に閉じきる前に俺はそう叫んだ。すると扉はあと五センチで閉まらんとするところで止まった。暫く沈黙があってから
「本当?」
 という声がした。
「本当本当!俺、全然詳しくないけどなんか読んでて楽しいなって思った」
 ドアの隙間から大きな瞳と目が合った。
「…………本当?」
 尋ねられて俺は激しく首を上下に振った。
「ぜ、絶対に笑ったりしない?」
「しない!」
「…………だったらいい」
 と言った美月はほっとした俺の眼球に人差し指を突き付けて
「次からは申告すること。怠ったら…………部屋に火を放つ」
 と言って扉は閉まった。戸は天岩戸のように閉ざされていた。
怖…………と思った俺のポケットからカサリと紙の擦れる音がした。そこには
【-hzqrg,経験値が溜まる……極秘クエストをクリアするには思……撃て…………oig8g】
 と書かれていた。


 〇〇〇〇


 俺は顎を伝う汗をシャツで拭いながら手紙を見ていた。そこには、誰も知らないであろう製作者が作った隠しイベントには非公開キャラが出てくる。そしてそのキャラと会う時に…………、書かれている文言を俺が読解した文字化けと共に書かれていたのはこういった内容だと思う。
俺はこれについて考えていた。
この手紙に書いてあることは本当なのか?と以前思った。そして俺は手紙に散った文字をかき集めて一つの文章にした。
そして、実際に【貿易センター四階の植木鉢の横には隠し扉がある】【三丁目のコンビニの電子レンジを置いてある棚の中に金庫が入っている】【笹川ビルの貯水槽の中に銀行のパスワードが書かれている】という文言を信じて探索した。結果は手紙の通りだった。
あまりにも俺が隠し通路やパスワードを見つけていくので美月が訝しんでいたが、誤魔化した。……誤魔化せたと思う。
言わなきゃと思いつつ、まだ結局言えていないな…………俺はそんなことを思いつつため息を吐いた。手元には

[誰もいず幽霊がいる白い街針が重なり太陽は道を作る
心臓を穿てば一人硝煙の中で気づく世界の元栓
連ねた言葉は真実かと問えば思考回る世界は万華鏡]

 と書かれた文章があった。美月の作る文章はかなり独特で、意味が捉えきれないものも多いな、なんて考えていたら
「どうしたの?」
 と食糧庫で俺と共に短歌を作っていた美月は俺に尋ねた。どうにも俺は考えすぎて、意識が遠くへ行っていたらしい。
「いや、なんでもない……腹が減ったなって思って」
「……さっき食べたのに?」
「んー、腹の調子がいいからかな」
 と言った俺を見る視線が痛くてたまらなかったが、俺は知らないふりをして立ち上がる。そして美月から隠れるように軍用レーションの詰まった箱に手を伸ばした。
「こんだけ沢山あるんだし、少し食べればいいんじゃない?sって、これ何?」
 そう言って美月が拾ったものを俺は見た。それは俺のもとにいつも届けられる手紙だった。俺は慌ててその手紙をひったくるようにしてポケットに突っ込む。
「ちょっと、その取り方はないんじゃない?」
「え、あ、ごめん…………見られたくないもんだったから」
「そういう自分もあたしの短歌勝手に見たじゃん」
 そう言われると返す言葉がない。俺は適当に誤魔化しながら、軍用レーションを手渡した。そんな俺を美月はじっと不審げに見つめていた。


 〇〇〇〇


「この句、どう思う?」
 と言いながら俺は黄ばんだ紙の裏に短歌を書いて美月に見せた。ノートを固く胸元で抱きしめている美月は暫く真剣なまなざしで見つめていたが、急にニコッと笑うと
「……すごくユニークで見てるとなんだか楽しくなる」
 と言った。日の下でそういう美月は格好と相まって、やはり絵の中の登場人物のようだと思う。そう思いながらぼんやりと見ていたところで俺は気が付いた。
「そういや、肌とか焼けてないんだな」
 あれだけ強い日差しにさらされていながら病的なほどに白い肌を見て、俺は不思議に思った。俺は強い日差しのせいか、仮想世界だというのに皮膚が黒くなってしまっている。お腹も空くし、痛覚も感じるし、本当にここが仮想世界なのか俺はだんだん分からなくなってきている。俺が勝手に勘違いしているだけで、この街は現実に存在して、俺は何らかあってここに送り込まれたのではないかと思う程度には。
「……考えたことがなかったけど、確か肌が茶色くなるんだったっけ?」
 相変わらず、美月は経験はないのに知識だけを詰め込まれたような物言いをする。
「そうだよ。俺の肌も実際に結構茶色くなってる」
 俺はここに来てから黒くなった肌を見せる。現実の物じゃないから、そういう言い方をするのはおかしいのかもしれないが。
「本当だね」
 物珍そうな目で美月は俺をしげしげと見つめている。
「美月は今までも肌とか焼けたことないのか?」
「…………ないんじゃないかな」
 首を傾げながら美月はそう言った。服といい、肌といい、この世界にそぐわないというか…………この世界のPCっぽくないな。と俺は思った。……思ってしまった。そこでおかしな形でピースが嵌ってしまった。
 姿形が変わらないのはNPCだけ。PCが知らないような情報を知っている。そしてこのゲームの世界を現実だと言って譲らず、愛している。この世界で気が狂うこともなく何年も過ごしてきた。そしてこのゲームに何年もとらわれているにかかわらず、噂にもなっていない。
 美月はこのゲームのNPCなのではないか?
このゲームの隠しキャラが美月だとしたら?
「詩音、顔色悪いけど大丈夫?」
 顔を覗き込まれて俺は思わず退いた。
「だ、大丈夫…………ちょっと考え事をしてただけだ」
 そう言って無理に誤魔化す俺を美月は訝しげに見ていた。俺はその視線から逃れるように俺は
「ちょっと横になってくる」
 と言って自室へ向かった。本当は気分が悪いのではなかった。確認したいことがあった。
俺は慌ててベッドの下のメモを探った。見た目は変わらない。しかし明らかに量が少ない気がする。まるで奥に詰まっているメモを抜き取られたかのように。俺を嫌な予感が叩いた。
俺は蟀谷に流れる汗を拭いもせずに、メモをベッドの下から引きずり出した。明らかに少ないのだ。手紙がなくなっている。
「…………ない」
「探しているのはこれ?」
 慌てて振り向くと、美月がメモをファイリングしたものとボロボロのノートを持って立っていた。今にも泣きそうな顔で笑っていた。
「最近、詩音の様子がおかしいなって思ってた…………急に隠し扉を見つけたり、どうあがいても分からないようなことを急に言い出したりするんだもん」
「それは…………」
 俺は言い訳しようとしたが、言葉に詰まった。もう何を言っても誤魔化しにしかならないのは一目瞭然であった。美月は鼻を鳴らしながら続けた。
「…………この手紙は詩音の部屋から集めた。最初に落ちたのを見たときに訳が分からないけど、あたしはこのメモを見た瞬間に引き裂きたい衝動に駆られた。そしてこれが他にもあるんじゃないかって思った。……予感は当たってた。本当は全部燃やしたかったけど、我慢した…………ねえ、詩音は思ってるんでしょ?このメモに書かれていることは……この世界とあたしのことを言ってるって」
 俺は躊躇った。しかし涙を目にいっぱい貯めている美月は覚悟していることに気づいたから俺は強く頷いた。そして部屋の奥に転がしておいた銃を握りしめた。
「あたしを撃つの?」
 感情のない平らな声で美月は尋ねた。俺はその問いには答えず、美月に銃を向ける。美月は顔をくしゃくしゃにして笑うと、右手にファイル、左手にノートを持って手を横に下した。
「撃ちなよ」
 俺はこんなに早く決断しなくてはならなかったことが辛かった。確かに現実には帰りたい、でもこんな形で突然別れを切り出されるだなんて思っていなかった。でも俺がノートを覗き見た日からチャンスは目に見えてなくなっていた。だから今しなくてはならないのだ。
「ごめん」
 俺は震える声で別れを告げた。そうだ、遅かれ早かれこの時は来ていたのだ。俺は目を固くつぶってから、声が震えないように気を付けながら別れの言葉を告げた。
「…………詩音と過ごした日々、楽しかったよ」
 俺は奥歯を噛み締めて、美月が持つノートに向けて撃った。
「え?」
 美月は自分が撃たれると思っていたのだろう、呆気にとられていた。
 …………このゲームの隠しキャラは美月だ。それは間違いない。しかしこの世界の中心にあるのは?一見すると美月だが、この世界のあらゆることが記されているのはあのノートであり、他でもないNPCが常に守っていたアイテムなのだ。だから俺はきっと間違っていない。
きっとこの夏を終えて、元の夏に帰れるだろう。きっと。寂しいけれど…………。
ゆらゆらと歪みだす世界の中、俺は夏の暑さを感じながら
「ありがとう。さようなら」
 と言って目を瞑った。
 世界は融けていく氷のように輪郭を失い、崩れた。

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