小説『いつもと少し違う』プロローグ

Prologue: 紫黄水晶のように絡まる

 舞台の上の昏い瞳と視線が交わった。

 きっと気のせいだろう、と俺はすぐに思い直した。
ライブ会場でよくある、アイドルと目が合ったなどと騒ぐ勘違いだ。
そもそも客席は暗いのだから見えるわけがない。それに映画に出るような女優がどこにでもいるようなパッとしない男を見ているはずない。俺の座っている辺りに視線を向けたに過ぎないのだろう。剰え舞台の上の人間が、覚えているわけないと考えるのはごく普通の思考だろう。寧ろあの女優が俺の方を見ただのと信じ込むのは、思い上がりも甚だしいところでありいっそ滑稽なほどだ。
「俺は馬鹿か」
と口の中で呟いた。頭の横で暗い声が響くような錯覚を覚える。
空気と同じ扱いをされるような存在意義自体が薄い俺という人間。そんな人間と有名映画に出る俳優たちを比べちゃいけないだろう?いやそもそも人様にとって空気ですらないのかもしれない。存在すら認知されないただの「無」なのかもしれない。そんな「無」が何を考えているのだろう?

眩いステージを眺めながら、肘を肘置きに置いて頬杖をつく。別に俺は卑屈になっているのではない。俺は単に今までの人生の経験と他人の待遇を比べて、(主観が混ざっていることは否めないが、)客観的に評価を下している。自分の考えるところでは。彼らは優れたところが人並外れてあるから、あの舞台に立っているに違いないのだ。
俺は舞台上という別世界でステージライトに包まれる演者達を見ながら、宝石みたいだと不意に感じた。質の良い原石が採取され選別され、適切な手法と工程を経てカットされ、並べられて光を当てられる。そして光を反射し、その輝きが一層増していくのだ。
 そしてステージの上に立つ彼らは存在自体に商品価値がつけられる。カットされた宝石のように。所謂別世界の人間だ。うだつの上がらないサラリーマンである俺と、彼らが接点を持ちうるという状況自体想像しがたい。精々、道やデパートの中ですれ違う程度。行く道が交わることなど、ありはしないのだ。
なんにせよ、芸能人という人種たる彼らが並ぶと煌びやかである。眩しすぎて、俺なんぞは焼けてしまいそうな心地を覚えるが。
夢中になる人間がいるのも理解できなくはない。と思いながら俺は頬を桃色に染めて、潤んだ瞳でうっとりとした眼差しを向けるガールフレンドを見た。この表情、ついこの前も見た……そうだ、宝石店で見た。 
この前のショッピングでも宝石を見て
『このブルートパーズ、綺麗!ルビーって高貴な感じがするよね。でもダイヤが憧れだよね』と言って同じような表情を浮かべていたような気がする。俺は宝石に興味などない。それでも美しいという感覚は共有している。
宝石たちは華やかなドレスを着て内心を決して明かさぬように、口触りの良い言葉を並べ立てる。そして我々の様な舞台下の人間の羨望や嫉妬の的になり、宝石に罅や傷が入っていないかを毎日好奇心と言う目を通して探される。そして気に食わないところがあろうものなら、完膚なきまでに打ちのめされる。挙句の果てに宝石は石ころ同然の扱いを受け路上に捨てられる。それを十分に理解しているか否かは分からないが、そんな物騒な世界にいるのだ。考え方も覚悟も俺達とは全く違うのだろう。
芸能界は魔窟のような場所だとどこかで聞いた言葉を思い出した。正しく生き馬の目を抜く社会で、その波に乗り遅れたやつからテレビに映らなくなっていくのだと。人気が全て、自分自身の考え方等ではなく、他人が見てどう反応するか飲みだけで作られた世界。その世界の中で、他人にどう見られているかなんてずっと考えていたら神経が参ってしまいそうなものなのに。
人々の噂に上ろうが、根も葉もない噂を立てられようが、悪意ある悪口を言われようが、何もなかったように笑ってカメラの前に立つことが出来る精神というのは如何ほどのものなのだろうか。……何があろうともある種の輝きを絶やさぬように只管前に進んでいく人は美しい。
俺には大した挫折も苦労もないから、そういうことを漠然と思う。役者として大成する前は苦労しましたなんて話はざらに聞く。それでも努力してステージに立ち続ける人間はドキュメンタリー番組のアナウンサーが言うように【美しい】のであろう。
舞台挨拶をする演者を見ながらそんなこと考えていた。正直、出演者が何を言っていたかさっぱり覚えていない。ただ、京都を舞台としたトライアングルラブコメディと銘打たれていたことは、何度も聞いたからか耳にこびり付いて離れなかった。
「袴田君があの番組出てから印象変わっちゃったでしょ?だから俺さ、この役の袴田君と絡むのめっちゃ緊張した」
「ちょ、なんでですか!」
俺にはよく分からない話題が飛び交う。時折、観客席から笑い声が上がっているからきっと面白いことなのだろう。何が面白いのだろうと不可思議だったものの、他人の笑う顔を見るのは嫌いではない。

ところで昏い瞳の演者はいつ言葉を話すのだろうかと思い、俺は彼女だけを見つめてその時を待っていた。彼女は時折周りと合わせてほほ笑んだり頷いたりしていた。その度にライトで紫紺色に見える瞳がキラキラと瞬いた。
しかし彼女に質問が投げかけられることもなく、質問時間は終わった。やがて拍手とフラッシュの余韻を残して、演者は全員舞台から去った。そして上映が始まり、俺が眠っている間に全て終わっていた。
だが映画館特有の閉じられたびっくり箱のような空間から現実に戻った後も、あの瞳が頭から離れなかった。胡乱で澱んでいるのに射抜くような、朧雲の隙間から覗く月明かりの様な双眸。気だるげであらゆるものに辟易している目を……俺は知っている?まさか、とその時はその考えを一蹴した。

しかしそれは気のせいではなく、俺は彼女に会ったことがあった。
更に彼女は舞台の上から俺を見ていて、俺が観客席に座っていたことも俺自身のことも覚えていた。それを知るのはそれから約三か月後だった。 それも約束したわけでもなく偶然鉢合わせたのである。……きっとこういうのを人は神の悪戯などと呼ぶのだろう。そう言った昔の人間の気持ちが、爪の先程度ではあるが、分かるような気がした。


 *****


 ふわり、と絹のような髪を風で揺らしながら
「昔と全然変わってないね。相変わらず色素が薄いんだね。羨ましいな」
 件の女優は俺に言った。あまりに突然声をかけられたものだから
「そ、うか……」
 戸惑った結果、適当な言葉が見つからず最早言葉ではない、音のようなものを俺は出した。
「肌の色も滅茶苦茶薄いし、黄色がかった茶色い目とかあんまり見ない。綺麗だよね。美白エステに行くの面倒で最近サボってるんだよ……」
いいな、などと言って彼女は嬉しそうに笑う。なんと声をかけるべきか俺には分からない。
何か言えよ、会話を途切れさせるな。俺ごときに声がかかっているんだぞ。チャンスは逃すな。俺はアホか?だからガールフレンドに振られるんだろ?気の利かない奴だな、俺って。だから俺は俺が嫌いなんだ。この期に及んで何にも変わらない。

息苦しさを感じて俺は思わず、首を掻きそうになった。随分と前からの癖だ。
俺はここに窪田がいることに対する困惑を拭いたかった。勿論汗のようには拭えないことは承知の上で、顔を片手で擦りながら上を見上げた。小高い山を落葉しはじめている木が色づけている。蘇芳色、浅黄色、蓬色、山が様々な色で彩られている。
眼球だけをそのまま左に動かすと、本殿の脇にある狐の石像と目が合った、気がした。勿論、石像は石像だから俺の方を向いたり、目が動いたりすることは決してない。鍵を咥えたその石像を見て俺は目を強く閉じて、額に手を当てた。
俺たちは伏見稲荷大社に呼ばれたのかもしれなかった。神様が人を引き合わせたり、悪いものを祓うために神域に人間が招かれることがあると父が昔言っていた。それを人間が認知できることはなく、偶然のような形でその幸運は授けられるらしい。本当のところは何も分からないけれど。
兎に角、世界は俺を置いて回っていく。

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