風の谷のナウシカ
私が幼稚園に通うようになった頃、金曜ロードショーで風の谷のナウシカを見たときの衝撃は今でも忘れられません。ろくに言葉も考えも持たない私が、画面にくぎ付けになりました。よくわからないけど、感動したのです。なにがすごいのかわかりませんでしたが、なぜか全てが理解できたようにも思えました。
虫が好きでしたし、森が好きでした。巨神兵という大きな人間が世界を焼き尽くす絵が怖くて、それが骨になって転がっていることに不思議と美しさのような寂しさに似たものを感じました。ナウシカはかっこよくて、綺麗でした。ナウシカがメーヴェに乗って空を自由に飛ぶ姿を見て、いつか自分もああなりたいと思いました。中学生になって、ナウシカの本を本屋で見つけたときは、その存在を知らなかったので驚きました。持っていたお金を全部使って全巻購入し、家に帰ってその本を読みました。読んでいくと、無くしたものを取り戻すかのように体にしみ込んでいくのを感じました。運命というのか、やっと見つけたんだという感覚でした。最終巻まで読み終わったあとには、読み始めとはうって変わって、非常に悔しい思いが満ちていました。内容が難しくて、ほとんど理解できなかったのです。本気で好きな作品なのに内容が理解できない、それがくやしくてたまりませんでした。その感情は、もっともっといろいろなことを知らなければならない、という意欲に変わりました。私は、ナウシカを理解するために多くのことを知ろうとしました。漫画や小説を読み、世界を眺め観察し、難しい言葉の意味を学び、ナウシカを理解するのに役立ちそうな本を図書館で探して読みました。それなりに知識を蓄えては、ナウシカを読み直し、やがて、大人になって、社会に出てから、ようやく読解できたと思えるほどになりました。しかし、それでもまだまだだと感じています。
宮崎駿という個人が妄想して描いた少女にとりつかれたようにのめり込み、そこに恋のような憧れを抱きながら、その世界に秘められた思いや、本質的な部分にまで手を伸ばしつづける。冷静に考えると、少し馬鹿馬鹿しくもありますが、それが私にとっては人生そのものだったようにも思えます。そうすることで、ほんの少しでもこの内容を後世に伝えていきたいという思いがいつしか私の中に生まれていました。そういった活動は私以外の大勢がうまいことやってくれそうではありますが、私が感じたナウシカの世界は、それはそれとして残しておくべきだと思いました。
風の谷のナウシカの世界には、人間と自然の共存がテーマとして描かれています。人間は星を犠牲にしてでも理想の世界を実現させるべきなのか、はたまた、自然の一部として苦痛や幸せをありのまま受け入れ、なりゆきにまかせて滅ぶのか。その問題を、人工知能という題材を上手く使って見事に描ききっています。まだコンピューターもろくになかった時代に描かれたとは思えない、信じられないほど未来を見据えた物語です。人間とは何か、という問題を、この物語はあらゆる角度から、緻密に描いているのです。
まずは、ナウシカのストーリーを知らない人のために、あらすじを書きます。
舞台は、私達が生きる現代のはるか未来です。人類は栄華を極め、人口は数百億人に上りました。食糧難や環境汚染といった地球規模の問題がとうとう限界に達しています。人間の倫理観も末期的です。あらゆる正義と、無数の宗教がはびこっています。人々は各々の正義に従います。その結果が、火の七日間と呼ばれるものです。それは戦争とは違いました。誰も得をしない、ただの人殺しです。人の数を減らす決断でした。人が人を殺す、というのは倫理に反します。そのため、自ら考える賢い兵器を作りました。人々を裁定する機械仕掛けの神。それが巨神兵です。空を飛び、火を放つ、巨大なロボットです。
なんとかこの間違った世界を立て直そうと必死で考える人もいました。深刻な環境汚染によって、海の生き物は死に絶え、土も汚れていて農作物が育ちません。環境汚染さえどうにかなれば人類に希望はある。そう考えて作られたのが、土の毒を吸い取り、結晶化することで無害な砂にする植物です。遺伝子の組み換えによってあらゆる生き物が人間に都合よくデザインされる時代でした。その植物は、千年かけて毒を石化します。しかし、その代償として、結晶化して落ち着くまでは、地上はその植物に覆われてしまいます。地上の生きものは全て死んでしまうのです。それは想定内だったので、ノアの箱舟のように、生き物のサンプルを保存し、環境が清浄に戻ったら再生して野に放つ計画を考えます。今生きている間違った人間を一掃できて、環境も綺麗にできる完璧な計画だと頭の良い人達は考えたのでしょう。
さて、それから千年後、地表のほとんどは腐海と呼ばれる菌類の森に覆われていました。人はじわじわと住む場所を追われ、生き残った人達は少ない土地を奪い合います。減少していく人々が更に殺しあう狂気の世界です。
この物語の主人公であるナウシカは、風の谷という人口が五百人に満たない小国の姫として生まれました。そこは、腐海の近くでありながら、谷を吹く風に守られてかろうじて生活できる、辺境の地です。体に蓄積する森の毒によって手足が石のように固くなる病によって人々は次々と死んでいきます。
この世界では、死は日常的です。ナウシカも、死産した十人の兄と姉が母親の毒を引き受けたおかげで生まれました。とにかく産んで、強い子だけがまれに育つのです。誰もが死んでしまうことを覚悟しながら精いっぱい生きています。そんな、つらいながらも平穏な日常を過ごしていたある日のこと、巨大な空飛ぶ船が風の谷に向かってきます。それが発端となって、ナウシカは世界の滅亡にひた走るだけの絶望的な戦いに巻き込まれていくのです。
そのストーリーは濃厚で、非常に難解なため、簡単に説明することが困難です。それをあえて簡単に言えば、戦争と自然災害に巻き込まれ人類がもうすぐ滅ぶことを悟ったナウシカは絶望し、自ら死ぬことを望みますが、未遂に終わったことを切欠に考えを改め、その後、自らの意思で生きることを選択する、という話です。
一応、これはあまり認識されづらいことですが、ナウシカは腐海を研究するユパという学者の弟子です。ユパは剣士として有名ですが、本業は学者で、そのユパにして「すでに私の方が弟子になりつつある」と言わしめるほど、ナウシカは腐海研究の第一人者となっています。オープニングの腐海探索も研究の一環です。ナウシカは、姫とか風使いとか使徒といった多彩なキャラづけがあるので忘れられがちですが、本業は学者なのです。この風の谷のナウシカという物語のテーマも実はそこにあります。ナウシカの本来の目的は人類救済でも世界平和でもなく、腐海と、そこに生きる生き物についての研究で、その生態系の謎を解き明かすことなのです。
その謎は、物語最後の論戦で明らかになります。
最後の論戦は作中で最も盛り上がるシーンなのですが、最も誤解を生むシーンでもあります。話の流れ的に、ナウシカが人類を滅ぼした、と感じやすいので、そうではないと、私なりに解説しておきたいと思います。そもそも、最後は作者のモノローグによって、伝承の存在が語られているので、伝承があるということは、人類はすぐには絶滅していないということです。人類はナウシカの選択によって絶滅してはいないのです。
最終的に、将来的に、ナウシカの決断が人類を滅ぼすことを決定づけた、と言うのは、旧人類が残した人工知能(墓所の主)が、全ての人間の体を作り変える技術を持っていたのに、ナウシカが独断で暴力的に破壊したこと(墓所の主を破壊したのであって卵を破壊したわけではないのだが、新人類の卵を潰したと誤解されやすい)が根拠となっています。しかし、人工知能(墓所の主)は、やがてナウシカ達現人類を全滅させて、遺伝子操作した完璧な人間を世に放つ計画を企てています。ようするに、現人類を含めたあらゆる生き物を犠牲にして新人類にとって天国のような理想郷を作ろうとしている、いま生きている全ての生き物にとっては魔王のような存在です。そのような者の言うことを、どれだけ信じられるのか、という話です。最後は「私を殺さなければお前達は生き残れる」と脅しのような交渉を試みてきますが、その口車に乗ることは果たして賢明でしょうか? それも「私にはその技術がある」と言っただけで、お前達を救ってあげようとは一言も言っていないのです。それを好意的に解釈して信じるべきでしょうか? とはいえ、ナウシカが絶対的に正しいという会話にもなっていません。かなり互角で、甲乙付け難いものがあるのです。これに関しては、ナウシカと墓所の主の会話を使って解説しようと思います。
ナウシカが全ての旅を終えて、墓所の主の居る場所に到達します。ナウシカの目的は墓とそこにあるものをすべて破壊することです。ですが、ただ破壊するのではなくて、自ら敵の懐に堂々と踏みいって、顔を見合わせて対峙し、腹を割って話しをしてから、相手を見定めて、決着をつけようと考えています。ナウシカが来ると、墓所の主は言いました。
その話が終わるやいなや、腹を立てたナウシカが言います。
この返答が全てといっても過言ではありません。言い分を聞きにきたのに、完全に欺きにかかってきたわけですから、ナウシカとしては全く信用できない相手だと断定するに十分だったのでしょう。
補足説明をします。
「あなた達は影だ」というのは、墓所の主が見せた立体映像です。墓所の主というのは、旧人類が作った最高の人工知能、ようするにAIのことです。この墓には栄華を極めた人類の知識の全てが込められていると考えられます。
ナウシカが戦争に巻き込まれたのは、トルメキアの同盟国として戦争に召集されたからでした。そのトルメキアと敵対していたのは土鬼諸侯国で、その戦争を裏であれこれ操作していたのが神聖皇帝であり、その黒幕として墓所の主がいました。
また、その墓を作った学者達は、生命を弄る技術を使って腐海を作りました。それによって、地球上のすべてが腐海に没しようとしています。戦争と腐海。それらは、ナウシカが苦しみを実体験として味わわされてきたことです。その原因の全てがここにいる墓所の主にあるのです。争いを繰り返す人の愚かさと、腐海という作られた生態系の抱える悲しみをナウシカはさんざん味わってきました。世界に生きる全ての被害者達の代表としてナウシカはここに立っています。ナウシカが見てきた悲しみの全てが、ここにいる墓所の主が生み出したものなのだとはっきりしたのです。
墓所の主は反論します。
火の七日間の前には、数百億の人間が生きていました。私達の生きる現代で、世界の総人口は一〇〇億人に達しようとしているところなので、その数倍の人間がいたということになりますから、食糧難が深刻になっていることは想像に難くありません。また、医療の発達でヒドラという死なない肉体を造れるようになりましたし、人のあらゆる技術は倫理観を無視して使い放題です。クローンも肉体改造もなんでもありで、生まれる子供すら容姿と才能を自在にデザインできたりもしたでしょう。子供は次々に生まれ、老人は何百年でも生きる時代。それに反して、地球の環境汚染は深刻です。新種の病気で人が大勢死んでいきます。人は生き残るために何でもするようになりました。その調停のために作られた神が巨神兵です。倫理的に人が人を殺すことは許されないので、神として巨大なロボットを作り、そこに搭載したAIに全ての判断を委ねたのです。その結果が火の七日間。その切迫する状況で、この墓所の主を作った人達は人類の遺産を後世に残そうと考え、巨神兵でも簡単には破壊できないような頑丈で巨大な建物を建設し、引きこもりました。世界を浄化させるために腐海を外に放ちました。腐海が地表をすべて覆いつくし、千年の後に世界が全て清浄な状態に戻ったら、争わず芸術を愛する心優しい理想的な人間の卵を孵化させようと考えたのです。
墓所の主に対してナウシカは反論します。
千年の昔にたくさん作られた神とは、人々の心の拠り所としての神様が、ありとあらゆる宗教の数だけあったという意味と、もっと実用的な、実際に機能を果たす神様が作られたということでもあるでしょう。巨神兵が全能の神であれば、墓所の主は全知の神としてデザインされたということです。理想と使命感から作られた。これは、論理的な推測です。「世の中がおかしくなってしまったのは我々が愚かだったために、正しく行動できなかったからだ」と当時の人々が後悔したからこそ、完璧に、理想的に、永続的に活動できる、平和な世界を正しく運営できる神様を作って、後の世の希望として残そうと考えたのではないか。滅びゆく人類が到達できなかった、理想の世界の可能性を後世に残さなければならない、という使命感があったことは恐らく間違いないだろう。墓所の主はそんな遺志によって生み出されたに違いないとナウシカは推測したのです。しかし、ナウシカはこれまでの長い旅の中で、そういった考え方は誤りであることを思い知っています。清浄とは、汚濁があってこそのものだと悟っているのです。苦しみ、悲劇、おろかさ、そんなものは世界がどんなに綺麗でもなくなりはしないだろう。人間がいくら完璧な世界を思い描いても、そこに住む人たちが考えることをやめてしまえば愚かになり、いずれ正しさを見失うだろうし、どんな正常なものも、年月が経つにつれ徐々に狂っていく。それに、生きていれば、何かに犠牲を強いることは避けられない。生きることは、汚れることなのです。だから人は、せめて自らの手を汚すことを自覚し、犠牲になった者達に対しては蔑ろにするようなことをしてはならない。死者を軽んじる世の中では、人は正常を維持することが出来なくなってしまうのです。その観点からすると「汚いものを全て否定することが正常だ」という墓所の主の言い分は、ひどく傲慢で浅はかに思われます。この墓所の主は、浄化の神として作られた為、自分の行いが正しく清いことだと信じています。まるで独裁者のように、自らの正義を信じているのです。それゆえに、無自覚に、純粋に、少しずつ間違えていく。浄化しか知らないので、自分が清潔だと思い込んでいます。まさか、自分が汚れそのものだとは考えもしません。実はものすごく醜いのに、自分を美形だと信じている、ナルシストです。それが憐れだとナウシカは言うのです。
それに対して、墓所の主は言います。
それに対してナウシカは言います。
墓所の主はあざわらい、反論します。
ナウシカは
「お前に頼らずとも私達は生きていける」
と主張し、墓所の主は
「お前はいいだろうが、お前達には無理なんだよ。私のサポートがなければおしまいだ」
と主張しています。
対して、ナウシカは、
と反論します。
対して墓所の主は、
と返します。
ナウシカは、
と主張します。
この星が決めること、の言葉は一見すると非常に無責任なものです。ナウシカは強くて逞しいので、確かにどんなに世の中が荒廃しても生きていけそうですが、おそらく大勢の人はナウシカのような生き方にはついてこれずにどうせ死ぬだろう、と墓所の主は言うわけです。ここがナウシカと墓所の主の議論のポイントです。
墓所の主は争いの原因を吐き出してきた黒幕です。腐海を世に放って多くの国を滅ぼす結果を招きました。彼にとって全ては想定内だったので、その過程で大勢が亡くなったことは必要な犠牲だった、ということです。ようするに「口減らしもなにもかも全て人間に代わって私が管理してやるから、お前等はだまって自分の役割をこなせ」と主張しているのです。それに対してナウシカの主張は「この星が決めること」。つまり、「私達を全員殺すつもりのお前に命令される筋合いはない。私達は私達の力で、この星で役割を見つけて生きて行く」。ということです。ここで言う星とは、腐海を含めた自然のことを言っています。
墓所の主は腐海を使いましたが、全てが終わったら腐海は自動的に消えるように設定しているので、ようするに道具感覚です。腐海が機能を終えた後が本番と考えています。
一方のナウシカは、もはや腐海が終わってからが本番とは考えていません。これから人類は腐海と共に生きて、その長い年月の中で、虫や粘菌のように腐海に寄り添った生き方を見つけていくのが自然だと考えています。それが星の決めること、の意味です。腐海の生態系を助長する形となって、腐海と共に生きる生き方を目指しているのです。
当然、墓所の主にそんな理屈は通用しません。虚無であると否定します。墓所の主には、腐海が生態系だという認識がないわけです。生き物ではなく、土を綺麗にするためだけにデザインした道具なのです。最後はきれいさっぱり消滅するように設定までしてあるのです。そういった考えをしている相手に向かってナウシカは「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」と言います。墓所の主には当然ながら理解ができません。墓所の主にはいたわりと友愛という概念がよくわからないのです。それらは言ってしまえばただの屁理屈であり、現実を度外視した妄言なのです。
そして、墓所の主は、
と言います。
その言葉にナウシカはこう答えます。
対して、墓所の主は最後にこう言います。
「お前は危険な闇だ」は、もはや議論ではなく、人格否定です。相手の理屈が理解できないので、馬鹿を相手にしている気分になっているのでしょう。それはナウシカも同様です。互いの価値観は平行線で、いよいよ交わるところがありません。
ナウシカの主張する、闇の中に瞬く光、とは光と闇がそれぞれ別々に存在するのではなく、常に表裏一体、セットなのだということを意味しています。不幸を知らなければ、幸せは感じられないし、苦痛を知らなければ、楽しさも味わえないと言っているわけです。しかし、AIは生き物ではないので、そういった感覚的な話が分かりません。墓所の主は正論だけを信じています。
ナウシカの主張は体感的で感情に偏ったものです。一方の墓所の主は論理的に思えます。しかし、この墓所の主にも問題はあります。彼は、自分では何もしない、口だけの、頭でっかちな、引きこもりなのです。彼はスポーツを実際にやったことがないのに選手批判をしている評論家のようなもので、完璧な選手を作れば理想的な試合になると本気で信じています。私の技術があればその選手が実際に作れるのだと主張しています。自分が実際にプレイすることは一切考えず、スポーツの充実感も面白さも辛さも負けた時の悔しさも勝った時のうれしさも何も理解せず、結果が全て、選手の気持ちなんてのは問題にならない、私の指示通りにすれば全てがうまくいくんだ。と主張しています。発言が正論かどうか以前に、プレーヤーとしては素人そのものである彼の理想は非常に身勝手で押し付けがましいものです。
それでも、墓所の主が正論を言ってるのなら根拠のない感情論よりは良いでしょう。しかし、墓所の主の正論は「自分が行うのための正論」ではなく「他人にやらせるための正論」ですから、実際に大変な思いをする側からすれば「人を利用するだけで実際のことは何もわかっていないお前の考え方は違和感だらけだ」と思えるわけです。
墓所の主の意見は「論理的に正しい行動を取れば正しい結果が出る」という正論です。対してナウシカの意見は「人間本位な論理など自然の調和を乱すだけであり、不自然な生き物は自滅の道を逃れられない」という正論です。どちらも立場を考えると正しいのですが、立場の違う相手を論破するに至るものではありません。
*
ここで一度、目線を変えて、王蟲について話をします。腐海の底に落ちたナウシカに王蟲は語りかけました。
「小さき者…わが一族は おまえを昔から知っているよ……わが一族は個にして全 全にして個 時空を超えて心を伝えゆくのだから」
一巻の一二七ページに書いてある王蟲のセリフです。これは最終巻で明かされることですが、墓所の主の体液の色が王蟲と同じでした。それについて森の人は、それは私とあなただけの秘密です。と、ナウシカにささやきます。なぜ秘密にする必要があるのでしょうか。
これは推測ですが、墓所の主と王蟲がもともと同じものだった、という意味だと思います。自らを光だと信じ、人間に理想を押し付けるAI。それと同質でありながら墓にこもらず、外に出て、実際に生きることを選んだAIがいた。それはもしかすると、腐海を育てる役割を担っていたからなのかもしれません。結果として、腐海を道具だとする墓所の主に対して、王蟲は腐海を生き物だと捉え、食べて受け入れ、自らの躯を養分として与えながら、寄り添うことになりました。王蟲は、テレパシーのようなものを使って情報伝達をしますので、個体が死んでも全体が機能していれば亡びません。そうやって千年、腐海の中で、実際に生きました。おそらく、はじめは墓所の主とあまり変わらない価値観だったのではないでしょうか。しかし、自らの考えを固定させず、生命の流れに身を委ねることで、新たな価値観を見出したのです。それが、ナウシカの言う、いたわりと友愛、です。ナウシカは、その王蟲の深い心に惹かれていました。そして、実際に世界を飛び回って、多くの人と生き物に触れることで、ついにその心にあるものを少し理解できたのです。つまり、それが最後のナウシカの主張につながってくるわけです。
「風の谷のナウシカ」という物語は、王蟲を主役として考えたとき、生き物として世界の一部となることを選んだ人工知能の物語、という見方ができます。そう考えると、最後の決戦は、王蟲の心を代弁するナウシカと、千年考えを変えなかったオリジナルとの戦い、という構図になるわけです。ナウシカは希望的観測によって「それはこの星が決めること」と無責任に言ったわけではなく、王蟲という前例を見て、いたわりと友愛によって共存共栄する生き方が星の導き出した答えだと信じたのです。
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人間とは何か。それを考えるとき、むしろ、人間ではないもの、機械や植物といった、動物以外の存在を考えることによって、逆説的なアプローチをすると、見えてくるものがあります。
墓所の主は、人間の論理的な考え方を極めています。
王蟲は、自然の一部として、生き物としてありのままを望んだ結果です。
人間中心主義でいくと、人間は最終的に機械のようになってしまう。
非人間中心主義でいくと、人間は最終的に植物や虫のような死を受け入れる生き物になってしまう。
どちらも、私達の思い描く人間像とはかけ離れたものです。
今の時代に生きる、私達人間は、機械的な側面と、植物的な側面を併せ持った、非常に曖昧な存在として生きています。どちらになる可能性も秘めているのです。
そんな中でナウシカは、人間として、その中立の生き方を守ろうとします。
王蟲のような生き方に憧れはしますが、王蟲そのものになれるわけはないからです。
王蟲と一緒に死んで、森の一部になりたい。一度はそう考えて、ナウシカは死を望みましたが、王蟲に助けられ、それは叶いませんでした。そして、立ち止まって考えた時、多くの者達が自分を必要としていることを思い出します。
大切な者達を生かさなければいけない。私も、人として生きなければいけない。その覚悟で、最後の決戦に臨んだわけです。
そこに「人間らしさがある」と私は思いました。
人間として生きるということは、機械にも虫にもならないということ。
安易な結論に頼らず、苦しみ続けることで、どちらにもならないことを選び続けること。それは、終わらない苦しみを味わい続けるという決意です。
生きる苦しみを否定したときに、人間らしさはきっと失われてしまうのです。
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