【科学夜話#11】奈良公園のシカ、1000年の孤独
中学校のとき、修学旅行で行った奈良公園のシカにせんべいをあげようとしたところ、後から不意に首を突っ込んできたヤツに全部もっていかれたことがあります。
神の使いにしては不作法だ、と憮然としました。
このシカの遺伝子解析から、約1,000年以上前にニホンジカ (Cervus nippon)の共通祖先から分離した奈良公園のシカは、それ以降他のシカと交わることなく、現在に至っていることが示唆されました。
この分岐時期は春日大社の造営と重なり、神鹿として人々が大切にシカを保存してきたことがわかります。
ミトコンドリアDNAでわかる母系遺伝
研究グループは、紀伊半島に生息するシカのミトコンドリアDNAの特徴を解析した。ミトコンドリアとは細胞内にある小器官で、酸素を使ってエネルギーを作る役割をもつ。
ミトコンドリアは動物細胞とは別に独自のDNAをもち、母親からのみ受け継がれるという特徴がある。そのためミトコンドリアDNAを解析すると、母系遺伝の系譜がどのようになっているか推定できる。
ミトコンドリアは、もともと別の生物(好気性細菌)だったのが真核生物の細胞に取り込まれて、共生を始めたものと考えられている。また細胞のDNAとは異なった分裂の仕組みをもち、突然変異の頻度が多い。
そのため、突然変異が起こった状況を遡って推定することで、生物集団がいつごろ、どのように枝分かれしたのか調べることができる。
地理的隔離(アイソレーション)とは?
ある生物の生息地域が、地理的な障害が原因で分断され、複数の集団(地域個体群)になることを地理的隔離(アイソレーション)という。
ガラパゴス諸島のゾウガメが、その例だ。
これらのカメは同一種だが、甲らの形や色、肢(あし)や首の長さなどの違いから、15の亜種に分けられている。
この亜種は、南アメリカ大陸由来の祖先種がそれぞれの島に隔離され、その環境に応じて独自に変わっていったものだ。
紀伊半島のシカも、もとは皆同じ場所で生活していた同一集団だったが、ある時期に餌となる野生のシカせんべいが枯渇してしまった。
そのとき、一部は「おれらは、新しいせんべいを開拓するために奈良公園行ってみるわ」「そうか、がんばりや!」というわけで分かれたきり、再びもとの集団とはまみえることがなかった、という事情があったのだろう。
生物実験に使う近交系
ある生物種が特定の場所に閉じ込められ、他の地域の同種と交配できないようになった、とする。
その場所内では交配する相手が限られるため、遺伝子のシャッフルによって皆の性質が似通ってくる。クローンのようになるわけだ。
物理の分野で画期的な発見をして、論文を出した。その実験材料として、1グラムのアルミニウムを使ったとしよう。
すると世界中の科学者が、追跡試験をするために同じ材料アルミニウムを調達するのはたやすい。だから追試を行って、同じ結果が得られなければ「ウソやろ?」と疑義を呈することができる。
ところが、生物の実験では日本のマウスで行った実験と、米国のマウスで行った実験の結果が異なっても、すぐに異論は唱えにくい。
なぜなら日本のマウスとちがい、米国マウスは肥満だったりするから。
だから、だれかが「ナントカ細胞はありま~す!」と叫び、だれひとり追試に成功しなくても、すぐにウソやろ?とはいいにくい土壌がある。
そこで生物実験には、近交系とよばれる妹・姉弟同士の近親交配を20世代以上継続して得られた、遺伝子的によく似た動植物の系統を使う。
マウスではDBA/2、C57LBL/6、BALB/Cといった系統になる。
これだと日本で調達しても、米国で調達しても同じ性質をもっているから、実験の再現性が高くなる。
奈良公園のシカも、他から分離してよそのシカとは異なる遺伝子の特徴があり、かつ公園シカ同士では同じ特徴が共有されている。これはまだ、外見や性質にちがいが出る、というレベルの話ではない。
さらに長い長い時間続けば、外見なども異なってくるだろうが。
余談だが、マウスに注射しても無表情で流してくれるが、ハムスターに注射すると「やられたっ!」と言う表情をするので、罪悪感に駆られる。
表情という表現法も進化している。
人が保護した奈良公園のシカ
紀伊半島のニホンジカ集団のなかで、奈良公園、東部、西部でDNAはほぼ同一だ。しかし、東部と西部が共通にもっている突然変異箇所が、奈良公園のシカにはない。
だから、シカの共通祖先からまず奈良公園のシカが分かれて、独自の生活をするようになった、ということがわかる。
東部と西部はその後も同じ場所で暮らしていたので、同じ箇所で起きた突然変異を共有している、という理屈だ。
突然変異が、どれくらいの年数ごとに起こるか推定でき、奈良公園のシカが東部西部と袂を分かったのは、1,000年以上前と考えられた。
これは春日大社の造営時期と一致し、人の営みがシカの生物学的特性に影響したことが見て取れる。
一部の報道は誤解を与えるが、なにも奈良公園のシカ「だけ」が特別な遺伝子を持っているというわけではない。紀伊半島東部、西部のシカのなかにも、やはり自然条件による地理的隔離によって、特異な遺伝子変異をもつようになった独立集団はある。
奈良公園の例は、人間活動がニホンジカに与えた影響を検証するために、古くから活動の盛んだった紀伊半島の集団を複数の遺伝マーカーで解析し、証明したことに意義がある。
その結果、紀伊半島には奈良公園、東部、西部の大きく3 つの遺伝的なグループが存在していることがわかった。
また1000年以上前(推定最頻値で約1400年)から周辺集団と交流を絶たれた奈良公園のシカ群は、ガラパゴスのカメのように亜種が生まれるような話ではないが、独自性が高いと言える。
1,000年は長い期間だが、亜種のように生物が異なる特質をもつには、まだまだ短い時間なのだ。
つい最近、近所を運転中に民家と民家の間にある路地から、シカが飛び出してくるのに遭遇しました。
慌ててハンドルを切ったのですが、対向車がいたら大惨事でした。いま住んでいるのは田舎とはいえ、こんな民家の近くで。。。
シカって、結構チャレンジャーで餌を求めて人家近くも訪れるのでしょうか。シカとぶつかったせいで列車の運行が遅れる、なんてのもときどき聞きますしね。
(参考)
【プレスリリース】「奈良のシカ」の起源に迫る ―紀伊半島のニホンジカの遺伝構造とその形成過程―公開日 : 2023-01-31 10:00(奈良教育大学HPより)
Journal of Mammalogy, gyac120, ”A historic religious sanctuary may have preserved ancestral genetics of Japanese sika deer (Cervus nippon" Toshihito Takagi, Ryoko Murakami, Ayako Takano, Harumi Torii, Shingo Kaneko, Hidetoshi B Tamate, 30 January 2023
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