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今の日本に必要なのは、根底から覆すこと。

今の日本に足りないのは、過去の経験の延長で考えるのではなく、新しい事をゼロから生み出す努力だと思う。

この20年、僕は日本がいつかそれを始めてくれると信じてきた。それまでの日本の快進撃を考えれば、いつまでも立ち止まっているはずがないと思ったから。単純なものづくりはビジネスにならないと判ったのだから、その次は新しい何かを生み出す努力を日本が始めると信じていた。だが今回は違っていたようだ。ちっともそういう努力は始まらないどころか、どんどん悪い方向に進んでいる。どこかの記事に書いてあったが、日本が好調だった時と比べると世界の中での日本の経済力が占める割合は1/3になっているそうだ。(15%から5%に落ちているそうだ)これからもどんどん減っていくだろう。そうなったら日本の皆さんの生活がどうなるか考えるまでも無いと思うのだが。

もう『カイゼン』で物事を考えてもどうしようもない段階に来てしまっているのだ。さて日本はどうするのだ?

僕自身はずっとエンジニアをしてきた。東芝では原子力発電所の制御用のマイコンを使ったシステムの設計もしていた。原子炉の水位を一定に保つための三重化制御装置も設計したし、燃料棒を移動させるブリッジを動かすための高被爆耐性を持つシリアル通信装置も設計した。ソニーではPCのVAIOのデスクトップ機種の設計課長もしたし、AIBOの開発チームでシステム設計部署にもいた。『細かいことを考える』という点では最先端の事をしてきたと言っても良いだろう。

だから余計に感じるのだけれど、いくら細かいことを良かれと思って一生懸命考えても、それより上位のマクロな視野の設計やビジネスマインドがロクでもないものだったらシステムはどうしようもなくなってしまうし、ビジネスも立ち行かなくなってしまう。

以前、中央自動車道でトンネルの崩落事故があった。天井のコンクリート板を上からつるす構造になっていたという。僕は信じられない思いでいっぱいになった。最初の10年くらいは構造計算をちゃんとしていれば天井が落ちることも無いだろう。だが、20年も経てばつるしている鉄筋もコンクリート版も寿命になる事は明白だし、いつかはそういう事が起きると考えるべきだ。もちろん点検はしていたのだろう。だがきっとそれもおざなりな点検になってしまっていたのだろう。そもそもの設計にフェールセーフを考えていないという、考え方の根本が間違っていることは明らかだと思う。企画者や設計者(役所、企業)の責任は問われなかった様だけれど、複雑な思いを抱いた。

また、地震の後の津波で第1福島原子力発電所が水をかぶってしまい、全電源停止になってしまったときに思った事。原子力発電所は最悪の場合でも制御棒を挿入できて、水さえ原子炉に供給できれば、あの時起こった様なメルトダウンは起きないのだ。高濃度の放射性物質が空気を通じて撒き散らされる事は無かったのだ。それは原子力に関わった仕事をした人ならだれでも知っていることだ。ただ単に水さえ供給できればよかったのだ。だが、なぜメルトダウンが起きたのか?それは外部からの電源が供給されなくなるという事を想定していなかったからだ。もし外部からの電源が供給されなくなる可能性を考えていれば、エンジンで動作する発電施設や給水ポンプを用意することはエンジニアならだれでも考えるだろう。だが、その考えが無かったのだ。第1福島原子力発電所は最初期の設計で米国のGE社の設計だった。当然いろいろ完璧でない事も有ったろう。第2福島原子力発電所に被害が無かったことから考えても、最古(40年)の原子力発電所を使い続けたことに問題もあったはずだ。さらに、当時の雰囲気では原子力発電所は完ぺきだから非常事態を想定することはいけない事だという感じもあった。そういうことが本当に反省されたのだろうか?

何が言いたいかというと、いくら細かいことを『カイゼン』して頑張って仕事しても、上位の考え方が間違っていたらどうしようもないという事だ。

そういう事を考える僕が、昨今の日本を見ていて分かってきたのは、日本は今まで『創造する』という事をちゃんと経験していないから、どうすればよいのか全く分からないのだなという事。ゼロから何かを生み出すという事が全く分からないのだと思う。(一部の世界的最先端企業を除いて)もちろんビジネスは創造だけでは出来ないし、カイゼンの努力は必要で、日本の皆さんがそれにかける執念の凄さも知っているつもりだ。SONYだって創造性の高い企業だったとはいえ、多大な『カイゼン』によって成り立っていた企業でもあったのだ。

僕がこんなこと偉そうな事を言うのもおこがましいとも思うのだが、言わざるを得ない状況だと思っている。

今の日本に根本的に重要なのは、皆が創造に向けて一緒に走って行けるような環境を提供することだと考えている。ただ誤解のない様に言っておくとそれは箱モノを作れというのではない。ビルが欲しいと言っているのではない。吉田松陰の松下村塾の様に台風で飛ばされてしまうような粗末な建物でも、そこで伝えられる話が集う人たちを鼓舞していけるようなマインドフルな場を提供できるかだと考える。決してシリコンバレーを真似してはいけない。日本人には日本人に適したやり方が有るはずだ。

今ある常識を根底から覆して新しい事にチャレンジしないともう日本に未来はない。

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