小田さんと和多志
オフコースの小田さんが好きすぎる和多志の話を思いつくまま記そうと思う。
初めて小田さんを知ったのは、和多志が14歳、中学2年生の頃だった。NHKの教育テレビのチャンネルで偶然流れてきた映像に釘付けになったのを今でもよく覚えている。「OVER」というミュージックアルバム作成現場のドキュメンタリー番組で、小田さんはその中でひたすら一途に「愛の中へ」を作曲していた。ただただ声もその姿も美しく、和多志はたちまち小田さんの虜になってしまった。
高校入学後初めての夏、それは和多志がまだ正確には齢15歳だった7月13日。ぼんやりと教室の窓から眺めていた海辺の駐車場が何やら人だかりでざわめいている光景を見つけた。「ハードルを跳ぶ男性の姿」がそこにあった。何かのロケらしい。クラスメートに訊くと「オフコース」が来ているという。和多志が飛び上がって歓喜したことは想像に難くない。(「夏の日」のMPV撮影だった。)
江ノ電が通る海沿いにあった高校へ通っていた和多志に千載一遇のチャンスが舞い降りたのである。その日は学校あげての球技大会が開催されていたために和多志はバスケの試合に出なくてはならず、あぁ〜見に行けないかもしれないと思っていたものの、偶然試合後の水飲み場で「小田さんが一人で駐車場を歩いている」姿を発見。体操着姿(しかもブルマ💧)でその場から駆け出した和多志…。
当時学校から海辺へ安全に着くためには、地下道を通らねばならず…普段であれば目前の道路は交通量がかなりのもの。。でもその地下道を通っていては間に合わないと直感した和多志…。偶然にも車の流れが一瞬途切れて、和多志はわき目もふらずブルマ姿!で国道134号線を走り越えつつ「小田さ〜〜ん!」と声高に叫んでいた。それにハッとしたように気づく(車に乗り込む直前の)小田さん。
駐車場前の柵を跨いで、小田さんの元へ駆け寄った和多志に静かに握手を許してくれた小田さんの右手の温かさを感じつつ、当時の和多志が精一杯声かけできた言葉は「これからも頑張ってください」の一言のみ。で、彼は優しい笑顔を残してそのまま車に乗り込む。それが和多志と小田さんが唯一同じ時間と空間に存在した和多志にとっては自分史上最高✨✨の出来事。
その後大学生になった和多志は、横浜のとある駅を利用する身となり、その駅近辺にあった「小田薬局(小田さんの実家)」へ用もないのに立ち寄り、必要もない「化粧水」を購入したりした。そのほかにも、小田さんが住んでいると噂されていた「逗子の披露山」へ一人乗りこんでいったり…。小田さん宅であろう邸宅ご近所の女中さんみたいな方と立ち話をしただけで終わったが(苦笑)。
大学時代には、もう一つ「小田さんにまつわる一大イベント」あり。バイト業に勤しむ中で、これまた偶然?巡って来た機会が「オフコース・コンサート」のステージング・クルーなるもの。県民ホールで二日間にわたり催されたこのイベントの1日目はスポンサー企業の販促・2日目は物販の仕事をした。2日目終了時にはマネージャー?の配慮で小田さんのゴルフバッグを持たせてもらうなどの経験も。
そんなこんなのミーハーな熱烈時代を通り過ぎ、いつの頃からか和多志の想いは「穏やかな応援パワー」へと変換され…続く人生で渡米し、結婚し、子育てしていく中でも、運転する車中で流す音楽は時折「小田和正ミュージック(新旧問わず)」なのであった。しかし「小田さんと和多志」の(勝手な和多志のロマン?あふれる夢)物語はここでは終わらず…(笑)
2015年3月には、当時2011年から2015年4月まで夫の駐在勤務のため家族で一時日本移転していたこともあり、アメリカ帰国直前の滑り込みセーフで小田さんのコンサートへひとり「初」参加した。そして直近の2022年7月、ごく短期で帰国滞在していた大阪でこれまた奇遇にも開催されていた小田さんコンサート会場に遭遇し、コンサートそのものには行けずとも『小田さんグッズ』を入手。
そんなグッズを手にニマニマしていたのは、初めてのトキメキや出逢いからおよそ40年経った和多志…変わらぬ「小田さん愛」で満たされきった和多志である。
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