見出し画像

24.02.16 『読書をプロデュース』

あなたは何のために読書をしますか?

その問いに答えるべく、私はこの本を手に取った。
結果としてこの本で結論を得ることはできなかった。
この本は読書家歴10数年の私にはとうに通り過ぎたレベルの話ばかりで、新たな学びとはならなかった。
しかし、読書の目的というのを見つめ直す良い機会となったので、それを書き残しておこうと思う。

私が読書を始めたのは、小学生の頃。
運動が苦手で、外遊びが苦痛だった私にとって本の世界は救いそのものだった。本を読んでいれば、外遊びを強要されることもなく休み時間を平穏に過ごせる。それがきっかけで、本を読むようになった。
当時好きだったのは推理小説。特にはやみねかおる先生の本を読み漁り、他にも図書室にある本の大半を読んでいた気がする。

このころの私にとって読書は一種の「逃げ場」であった。しかし、同時にこれが娯楽として極めて優れているとも感じていた。
本には想像の余地がある。映像よりも読者の想像力に掛かっている部分が大きい。これは空想が大好きであった当時の私にぴったりのエンタメで、自分で主人公の見た目や世界観を想像するのがとにかく楽しく感じていた。

中学・高校に進学すると、通学時間が伸びて電車内などの暇つぶしに本を読むことが多くなった。校則でスマホの使用を禁止されていたので、他にできる暇つぶしが無かったからというのが理由の一つだった。しかし、当時の私はすでに読書の魅力に囚われていて、積極的に本を読んでいた。

早く読むことができるようになっていたので、読書量が増え、学校の図書室で毎日何冊も借りて、翌日には返すという生活であった。このときの学校の図書室にいた司書の先生と本の話や生活の話をよくしていた。その先生との空間が心地よくて、図書室に入り浸っていたのを覚えている。

その司書の先生おすすめの本にもよく手を出していて、それによって読むジャンルの幅がぐっと広がった。古典が面白いと教えてくれた先生には感謝が絶えない。
古典は昔の人が書いた文章だ。それが今なお残っているのは、その文章が優れていたからであり、その作品たちは読む価値が高いことが多い。そう気付かされた。実際、古典は良いものが多いと感じるし、合わない作品も数年後に再読すると良さに気が付いたりする。
中高時代の私は、そうして古典の良さを知った。

大学受験の期間は、勉強に集中するために読書量をかなり減らしていた。
そのため大学に入ったころの私は、読書よりも動画や漫画を選んでいたと思う。そのうちに授業で紹介された本を読むようになり、また読書がいいものであると気が付いた。授業で紹介される本は小説もあったものの、多くは実学書に分類されるような専門性が高い本だった。これらを読むことで得られる知識量は、他では得られないほど大きなもので、とても勉強になった。
自分がいかに無知であるかを実感し、それを克服すべく勉強することは、私にとって最上の善いことだと考えている。そのため、最近の私は娯楽としてのみでなく、知識を身につけるために読書をするようになった。

小学生の頃の「逃げ場所」であった本の世界は、
中学・高校で古典という優れた作品の数々に出会うことで広がり、
大学で実学書に触れるようになったことで知識の源ともなった。

娯楽としての読書の良さは、想像する余白が他のエンタメと比べて大きいことだと思う。行間にある場面を想像する楽しさや自由度の高さが魅力であろう。本と自分との間には誰も入り込めない世界があって、それが一冊一冊それぞれに存在する。本は私の世界をどんどん広くしてくれる。

次はどんな本を読もうか? どんな世界へと向かおうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?