見出し画像

寄りみち記事

メルカリと関係ないこと書いてみた。

先日 子供(いい歳の大人)と、今後のわたしの身の振り方に関わるような

・仕事のこと
・お金のこと
・その両方が関係してくる老後のこと

についてLINE通話をした。時間にして1時間ちょい。

母親の話に興味はなく、耳を傾けるための時間的余裕もない子供は、仕事に関してはわたしの師匠的な側面もある。
仕事の話なら時間を作ってくれるから、子供を師と仰ぎ同じ方向を見ることにしたという経緯もあり。

徐々に話がヒートアップ気味になるなか(わたしたちは気を抜くとバトる)、子供が目指す方向からわたしが離脱しそうになっているのを感じてなのか、言葉を選びながらも「親への教育」が始まった・・・。

良かれと思いしてくれるアドバイスに、
「頭ではわかってる、それが効率良くて結果が早く出るのもわかってる。でも、それはしたくないんだよね・・・」という素直な気持ちを、言葉を選んで、

わたしらしくない気がする」と伝えてみた。

そう、例えて言うなら

わたしの身体なのに、脳ミソと心臓(ハードウエアじゃなくソフト:ハート)は誰かの借り物みたいで、なんとなく気持ちのわるい幽体離脱的感覚。

そんなわたしの反応を見て、子供は
「ずっと思ってきたけどさ、お母さんて主観的だよね」と攻め&諦め気味に言う。

主観的:自分の好みなど、自分だけが感じるものの見方。対義語:客観的。


「わたしが主観的? いつも全体を見回して自分は後回しで、家族をサポートしてたのに???」

一瞬 飲み込めなかったけど、「そう言うんだからそうなんだろうな」と認めたら、自分がやけにヘッポコな存在、しかも母親として もはやポンコツに感じられた。

通話完了後はさすがにちょっと凹んで布団に逃げ込んだけど、ふと「それがどーした。わたしの人生だよ、主観的で何が悪いのさっ!」と思い直して立ち上がる。


そして、主観的というワードが導線となり気が付いたこと ↓  ↓  ↓

わたしが今したいことは
誰かの考えを頭にインストールするんじゃなくて、近道を行くことでもなくて、
「自分のココロの奥にあるはずの思い」を表に引っ張り出してくること。

「自分の身体と脳ミソと心をつないで主観的に生きる」こと。


思えばいつも
人の意見を尊重して、自分は黒子的・縁の下の力持ちで、感情(ハート)は後回しにして理性(脳ミソ)でいろんなことを決めてきた。

よく言われる

・自分軸で生きる
・自分の人生の主役になる
・みんな違ってみんないい
・ありのままで
・This is me.

・・・など。
世界に一つだけのナンチャラ的な意味のいろんな言葉があるけど、
ひとことで言うなら

主観的であれ!


(子供よ、目覚ましワードをありがとう!)
ということで、しばらくはこれを myテーマ にしていこうと思います。


注)画像は昨年、大雪が降った翌朝に衝動を抑えきれなかった50代主婦拓。

  わたしはずっと、こんな大人であり続けたい・・・。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?