『ブラフマンの埋葬』を読んで

 素晴らしい小説だった。言いたいことはおおむね解説で奥泉光さんがおっしゃっているのだけれど、それでももどかしく思うところが多くあったので話してみたい。

 あらすじは、〈創作者の家〉の管理人をしている「僕」が拾ってきた犬である「ブラフマン」と過ごしたひと夏を、雑貨屋の娘や彫刻家といった登場人物たちと共に語っていくと言う普通といえば普通の話。
 その中で異質なのは、まず固有名詞の徹底的な排除だ。〈創作者の家〉というのが唯一残された固有名詞にも見えるが、それは単に一般名詞として場所の役割を語っているだけにも見える。ブラフマンというのもヒンドゥー教の「謎」という名詞であり、この作品の全ての人物や物事はその意味で固有性から解き放たれている。その効果として、この作品は夢の中のような淡さと不確実さを併せ持ち、どこか掴めない魅力を放っている。
 また、登場人物同士がほとんど「侵犯」をしないというのも特徴だ。彼らは交流さえするものの、泉泥棒という最大の侵犯者の登場まで誰も深く互いの領域を侵犯せず、それぞれの領分を秘匿したまま話が進んでいく。
 これらの効果が最大に際立つのは、やはり最終章の手前、古代墓地の石棺のなかで、男の体液に塗れた雑貨屋の娘をブラフマンが発見するシーンだ。それまで雑貨屋の娘と土曜日に来る男は良好な関係を築いていた(と少なくとも「僕」には見えていた)。それなのに娘だけが取り残されているというのは、濁さずに言えば性暴力の跡が明らかに見える。そして主人公の「僕」は明言しないまでも、雑貨屋の娘と男の逢瀬を妬み、すくなくとも良く思っていなかった。ブラフマンと古代墓地の跡地へ共に散歩に出かけた時、通りすがった石棺の中では一体何が起こっていたのだろう。もう「僕」にはそれを知ることも、その過ちを贖う術もない。
 タイトル通りのブラフマンの埋葬のシーンで、ブラフマンを轢いてしまった娘が葬儀に参列していないことを咎める読者はいないだろう。これは娘の自責の念なのかもしれないし、前述の被害とも相まって不安定になっていたのかもしれないし、あるいは、いまだ男との関係を継続させられていて、無理矢理にまたあの石棺に引き摺り込まれているのかもしれない。
 「侵犯」することによって、「僕」は娘の石棺の中を明らかにしてしまった。しかしそれらはあからさまに書かれることはなく、淡い夢のような筆致の中に飲み込まれていってしまう。いまの自分にはここまでしか書けない。とにかく良い読後感だった。。。

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