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メメント・モリが過ぎるんじゃないの

5月に入り、仲のいい後輩の結婚式に出席した。コロナのせいで入籍からは随分経っている。こちらもハレの場は久しぶりで、服を買ったり髪を切ったりウキウキと準備をした。式でも披露宴でも、後輩が新婦やご両親に確かに愛されているように感じられ嬉しかった。

翌日、同期の訃報が届いた。会社がまだ絵に描いたようなベンチャーだった頃、同じポジションで働いていた。数少ない、今も残っている人。

自分が異動したので関わりはめっきり減り、体調を崩しているのはなんとなく知っていたが、そうか。

喪服を引っ張り出し、太って入らなくなっていたのでしまむらに行った。

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4月末、父の十年祭で帰省した。コロナのせいで命日とは全然関係ない日になってしまった。

父は歳の離れた末っ子だったが一番先に亡くなった。集まった叔父・叔母たちは高齢で、上は90歳だ。会うのはこれが最後の人もいるだろうが、それを防ぐために自分が何かするとも思えない。

たとえば父が亡くなり途絶えた正月の集まりを復活させるとか?

やらないな。やらないんだけど、このままでは二度と会わないと積極的に選択したような気がして、そうじゃないんだと言い訳するようにLINEを交換する。80歳でもLINEするんだな。クール。

古いアルバムを見てもらったら、知らなかった父の話がたくさん出てくる。

めちゃめちゃに甘やかされており(そんな気はしていた)、学生時代を過ごした東京では何度も気ままに引っ越していたらしい。叔母夫婦にもよく小遣いやご飯をたかっていたらしい。

思い出話に花が咲くさまを横目に、ホストとして慌ただしく過ごし夜の便で東京に戻った。

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狭いジェットスターの座席で、私はずっと泣いていた。これから戻る東京を父と歩くことは絶対にないのだと、10年経ってはじめて、ようやく、理解した。

好きなものを魅力的に語ることが上手な人だった。東京が好きだったから、きっと思い出の地を巡ってたくさんの話がしたかっただろう。私とは気が合ったから聞かせたかっただろう。私も聞きたかったよ。でもそのチャンスはもうない。

あー、そうか。なるほど。これが死か。

涙をごまかすために三体を読んでるフリをしたから、隣の席の人は三体がめちゃくちゃ泣ける本だと思ったかもしれない。

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同期の告別式は、正直、大丈夫だろうと考えていた。そこまで関わりが多かったわけじゃない。ただ同時期に同じ苦労をした同年代の人。言ってみればその程度。

でも全然ダメでした。この人との「いつか」が二度と来ないことを、わたしはもう理解してしまっている。

綺麗なお顔でしたね、というような話にまだ混ざれる気がしなくて、まっすぐ家に帰った。

大切な人に、できれば元気で長生きをして欲しい、でも無理なときは、できればあらかじめ教えて欲しいと伝える。なるべく急にいなくならないでね。そっちこそだよ。お互いにね。

そんなふうに、何の意味もない約束をして一日を乗り切った。

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次の日は喪服を洗濯して掃除機をかけてスコーンを焼いた。日常を過ごしていれば近いうちに思い出になる。これはそういう類の別れだ。

それでも、なんとなくわかってきた死というものを、知らなかった頃に戻すことはできない。

今の私にとっての死。いつかこの先、別の意味を持つこともあるのだろうか。

同期は余命を知り、働き暮らしながら別れの準備をしていた。彼女にとってはどんな意味を持っていたんだろう。父はどう考えていたんだろう。聞くチャンスはもうない。

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