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noteを書き続けている人は凄いと思う

随分とまた久しぶりの投稿になってしまった。
前回の投稿が2月23日なので、2か月ちょっと空いてしまった。
一時期は毎日書いていたのに。
人の習慣というのは、一度途切れてしまうと、復活させるのが難しくなるものだ。

noteを書くモチベーションが上がらないのが一番の続かない理由なのかもしれない。


「毎日、スープジャー」と題して、スープジャー生活を投稿していたけれど、いつの間にかやめてしまった。
なぜやめてしまったのかは、忘れてしまったが、いつの間にか投稿するのをやめていた。
けれど、スープジャー生活自体は、いまだに続いている。
昼食を買いにコンビニに行くことは、ほぼ、なくなった。
ほぼ毎日、スープジャーに何かを入れて、持って行って食べるようになって、昼食にお金をかける必要がないことを知った。
一人分の野菜も、たとえば、キャベツや白菜を買っても、昼食用にだけ使うと1か月も使えることが分かった。
1人分の1食分には、葉っぱ1枚あれば十分なのだ(メニューにもよるけれど、それ以上だと、スープジャーのキャパオーバーとなってしまう)。
noteに投稿する習慣だけが続かなかった。

noteに投稿する意味は何だろう。


1つは、備忘録のためだった。
今でも、前に作ったメニューの記事を見ながら、再現することがある。
失敗したことなんかも記録しておくと、次につながる。

備忘録としてであれば、残したいことはたくさんある。
最近は、市民農園を借りる事が出来て、自分の畑を持つことができた。
栽培講習会というのがあって、そこでも記録することの大切さを話していた。
野菜を育てるとなると、数か月間の長丁場になるし、すべての作業が年に1度のことだから、書いていないと忘れてしまう。
同じ失敗を繰り返さないためには、記録に残しておくことが重要だ。
それで、最初は大学ノートを買ってみた。
けれど、手書きもやっぱりめんどくさくなって、今は自分で作ったアプリ(kintoneで自作)に記録している。
簡単に写真を添付するだけだったり、箇条書きでメモするだけだったりだけれど、畑作業をしながらの記録だから、スマホでやれた方が便利だ。

もう1つ備忘録では、釣りの記録を付けている。
これも季節ものだから、どの時期にどこに出掛けて、何が釣れたのか、何に失敗したのかを記録しておくことが重要だと思った。
思い返せば、去年も夏前は、まったく釣れなかった。
見直さなければ、危うく同じ失敗をするところだった。
釣れなくても、糸を垂らしたくなるのだ。
釣りも、畑と同じく、自作のkintoneアプリに記録している。

noteに備忘録をつけてみてイマイチだったのは、あらゆる分野を詰め込むことによって、なんだかまとまりのないカオスなものになることだった。
マガジンでまとめることによって、ジャンルごとに見ることができるので、そっちでまとまりができるような気がしたのだけれど、なんだかしっくりと来なかった。
きちんとした記事にしないといけないような気がしてしまうのだ。

noteに書くのは、誰かに見られたいから。

noteを始めたそもそもの動機は、書いたものを誰かに見て欲しいから、というのが大きいのかもしれない。
誰にも見られる可能性のない、ただの備忘録だったら、そこには何の期待も生まれない。
自分にだけ向き合えばいい。
それは随分と気軽で、自分にとって意味があってもなくても構わない。
続いた結果、後になって意味を理解する。

noteの場合は、どこかで他人を意識してしまう。
見られることをどこかで気にしてしまう。
公開したからには、どのくらい見られたのかが気になってしまう。
スキがついたりしたら嬉しいのだけれど、それに感情が動くのが、邪魔くさかったりする。
それで、実際は、ほとんど誰にも見られない。
数人誰かに表示されてきっと終わっている。
これだけ情報があふれる時代の中で、誰だかわからない人の文章をわざわざ読むというのは、よっぽどのことだと思うし、自分自身もそこまで人の記事を読んでいない。
だから、期待するのもおかしな話なんだけれど、全く気にしないというのも難しいことだ。
これが仕事であれば、依頼者がいるので、依頼者に応えるために続けることはできると思う。
少なくとも依頼者は必ず目を通すからだ。
けれど、読者がいるのかいないのかが、よくわからないnoteは、頑張って毎日更新したところで、それが何になるのだろう、と思ってしまったりする。
何かのきっかけで、続いていた記録が途切れる。
すると、何かどこかで、もう、いっかな。と思ってしまう。

昔々、まだ90年代だった頃の学生時代にホームページを毎日のように更新していた。
あれは何で続いたんだろう。
自我が強い若者だったからだろうか。
それもあったし、一人暮らしが暇だったからかもしれない。
実際、久々にnoteでキーを打っているのも、家族が久々にいなくて暇になったからだ。
今は、特に読まれることは意識していない。
言葉を書いて、その言葉から繋がる言葉をただ打っているだけだ。
意図も着地点もない。
ホームページだった時には、自分の場所があったと感じられたような気がする。
わざわざブックマークをして、行き来していたものだった。
今は、なんとなくお気に入りに登録しても、雑多に記事が流れてくるだけだ。
もちろん、その人のページに行くと、その人の記事は読めるんだけれど、なんかつまらないんだ。
今の時代の読み方に対応できていないだけなのかもしれないけれど。
いろんなツールがありすぎて、ここが自分の場所だ、と特定できていないことが嫌なのかもしれない。

暇だということで書き始めたこの記事も、一応は、閉めなければいけない。
とりあえずのまとめだ。

noteを買い続けている人は、凄いと思う。
続かない自分とは違う、何かを持っているんだと思う。
僕は、僕自身の固定された場所をどこかで求めている。
できれば、分野を絞るわけでもなく、まずは雑多にいろいろなことを書いてみたいと思っている。
書いたからには読んで欲しいとも期待してしまう。
雑多に書いたものはマガジンにでもすれば、まとまりがでる。
もっとわかりやすくしたければ、自分でホームページでも作ってまとめたらいい。
noteだけで完結させようとするから、なんだかモヤモヤするのだ。

うん。たぶん、そういうことで、noteが続かないのは、自分自身の問題なのだ。


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