先立つ不幸がなんとやら

画面の先にあったもの

23〜24年の社会人期のうち、半分近くは体が気合いで仕事へ行くようにできていたので、その期間中は、一応見かけはどうにかなっていたように思います。私はそう思いたい。

4月の終わりに、千葉県内で女子高生2人が飛び降りて亡くなる事件がありました。
ニュースで知った訳ではありません。Twitterで動画をザッピングしていたら、その時の動画が流れてきました。
あとから調べたら、飛び降りの前からくネットの一部でかなり注目されていた案件のようでした。
最悪の選択肢を取る瞬間を全世界に中継して、彼女らは命を絶ったのです。動画は、野次馬が切り抜いて拡散したものでした。
動画の内容が内容なだけに流石にTwitter運営から消されましたが、後も動画の痕跡はネット上に残されていました。
しかも彼女らが決断した理由というのもなかなかひどくて、少し調べたら色々と言葉にしづらいもののが出てきて、わたしは黙って画面を見ることしかできませんでした。

たまたま目にして、最後まで見てしまった時は怖かったです。親戚の告別式で遺体を前にした時は何度かあっても、目の前で人が死ぬ光景、それも病ではなく自死の瞬間を見るのはフィクションだけだと思っていました。

その後、一時的なショックはあってもなんとか立ち直り、仕事の島根への異動が決まり、その前後で前回のオーバードーズに話が至ります。

今に至るまで、あの動画が記憶の中から抹消されたことはありません。毎日思い出すことはなくても、ふと蘇っては良くないことを考えそうになります。
私は高いところは好きですが、高い所から足を滑らせた後のことは考えたくありません。仮に死ねても意識が途切れる直前まで多分めちゃくちゃ痛いですし、運良く生き残ったら痛みに悶えることになるでしょう。

画面の先にあったもの・その2

コロナ禍に入った時、私は連日流れてくるテレビのニュースとTwitterのトレンドタグをひたすら眺めて、その中でなんとも言えない、というか口にするのが憚られるような不幸を何度か目にしたことを覚えていると思います。

その一つが自殺に関する訃報でした。
私が認知している人、知らない人、どちらであっても「逝去」という文字を見て気持ちのいい反応をすることはまずないと思います。
ただ、コロナ禍で気が立っていたのもあってか、当時私は自殺に関する報道を見るとどうしても頭からそれが離れなくなっていました。
というか今も離れていません。

世間的に名前が知られている人が亡くなると必ず話題になります。
それが好意的なものだけならまだよかったものの、どうしても人はその人が亡くなった原因に当たるものに対して横槍を刺したくなります。

学生時代の私は、それがなんとなく嫌だった。
と同時に、死んだら人にいっとき注目されるという事実に、少しだけ羨ましいと思ってしまいました。

笑ってしまうくらい何もないから。
きっかけがなくとも、「死にたい」と考えるんだろう。

学生時代書いていた日記から抜粋

明確に「自分には何もない」と思っていたからこそ、そういった邪な感情を抱いてしまうのでしょうね。

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