私も130%泣くはずです!

コブ山田です。
ようこそいらっしゃいました。

今回は、中京大学付属中京高等学校3年生の堂林翔太さん(2009年当時)について、記します。

2009年08月24日(月)。
大学3年生だった私は、予定が合い、阪神甲子園球場に高校野球を観に行きました。
隣県愛知県代表の中京大中京高校が決勝進出!相手は隣県岐阜県の県立岐阜商業高校…を破った、新潟県代表の日本文理高校でした。

2009年の夏はとてもアツく、愛知・岐阜・三重の東海3県全県の高校が初戦突破。
最大のハードルである三重県代表三重高校が、11年ぶりに初戦突破し、大はしゃぎでした。
ずっと、初戦負けでしたもの。

ベスト4には愛知・岐阜・岩手(花巻東高校エース菊池雄星)・新潟の4県となり、結果、決勝戦は愛知県と新潟県で戦うことになりました。

早めに中京大中京高校側のレフトスタンドに座ります。平日ですが、決勝戦だけあり満員です。

試合が始まり…と言っても覚えているところしか書きません。
01回裏に中京大中京の4番ピッチャー背番号1堂林翔太がライトスタンドにホームランを放ちます。

途中で堂林はライトに守備に回り、リリーフした背番号11の森本隼平は三重県出身。彼目当てでもありました。

08回裏終了時点で10-04と中京大中京06点リード。そして、9番の中村大地が倒れ、09回表2アウトランナーなしとなったところで、私はバックネット上のスコアボードの写真を撮りました。書いておいて申し訳ないですが、データが見つかり次第掲載します。

そこからは、以下の動画を再生してお楽しみください。

8番若林がバッターボックスに入った時点で、私までも生きた心地がしませんでした。
これが人間の執念なのか。逆境で出した底力とはこういうものなのか。と、その瞬間に立ち会えたのは一生の思い出です。

最後、サードの河合完治がライナーを捕球し試合終了。リアル『名門!第三野球部』の第01巻です。
当然、全選手に向けて惜しみなく拍手しました。

そのあとのインタビューも印象的でした。
堂林は、人目もはばからず泣き、さらには謝罪の言葉まで出てきます。

インタビュアーからはフォローがありましたが、これは私も泣くと思います。

誰もが門を叩けるわけではない中京大中京高校の野球部で4番、しかもエースピッチャー背番号1を勝ち取ったわけです。
それまでの練習も、苦しかったものがあるはずです。

4番でエースという投打両面の重責がある中、ホームランは打ったものの、最後に大差だった得点をあれよあれよと僅差どころか
逆転が見えるところまで追い詰められました(最後はまた森本が投げていましたが)。
自分のせいで監督、ベンチ入りメンバー、スタンドのメンバー…いや、それどころか、愛知県民に一生物のマイナスポイントをつけてしまいかねない。

3年間頑張ってきたのに、最後の最後自分の手で手繰り寄せるどころか手放してしまい、みんなにカバーしてもらった。
そして40,000人以上の人々にその姿を見せてしまった。

泣きますよ!そりゃ!

ただ、これは全国民に、最後の最後まで油断するな+最後の最後まであきらめるな=ものすごいパワーを与えた、ノンフィクションドラマだったと思っています。

現在、広島東洋カープで背番号7を着用する彼は、何を思うでしょうか。
プロ野球選手としても順風満帆ではなく、山あり谷ありで再び2020年、山と言える状態です。

乗り越えた壁はいつか自分を守る盾となる。これは、本人が誰よりもわかっていると思います。
私も、本当に恵まれています。

ありがとうございました。

サポートいただければ、本当に幸いです。創作活動に有効活用させていただきたいと存じます。