豪州旅 - (1) Invitation
船は港にいる時
最も安全であるが
それは船が作られた目的ではない。
△作家・パウロコエーリョ
そろそろ時効(?)だと思うので、綴っていこうと思う。去年12月に決行した、豪州ヒッピー旅のこと。
ちょっと不思議な世界の話になっていくので、そうゆうのが苦手な方は、【豪州Hippie旅】という冠のついたタイトルの記事はスルーしてください。
わたし自身の内面のディープな変化も、生絞りで書いていこうと思うので、そんなの片腹痛くて見てられないわという方は、引き返すのなら今のうちです。
---
退職を決めてから徐々に、自分の脳に変化が起きているのを感じた。明らかに能天気度合いが増しているのである。
脳内BGMはヘブンリーな琉球民謡で、「なんくるないさ〜あいあいさ〜」ってキャッチーな合いの手がうたれている。ああ、わたし・・・あの会社にいれたことで、何とか正気を保てていたクチだったのかも。
もともと臨床心理学の大学院をうける準備をして、予備校でなかなかいい成績もだしていたところで、ラストスパートをかけるべく退社をする・・・はずであった。
けれど真面目に研究計画書を練れば練るほど、やはりわたしの探求したいことは、”心”だけを取り扱っていてはだめで、”身体”と”心”が一緒にテーブルに並べられないとスタート地点にたてないことがわかってきた。
というわけで、一度臨床心理学の受験をストップして、再度ピンとくる研究者に会うことにした。こんな意思決定をすること自体、昔のわたしじゃありえない。次の行き先も決めずに会社をやめるなんて!(でも、なんくるないさ〜あいあいさ〜)
そこでお会いしたのは、わたしの母校で瞑想研究をしているFさんという方だった。この大学には学部横断で心を研究する組織がある。そこでは、教育学部でも医学部の機材を使って、心の研究を行うことができる。例えば、瞑想の効果をはかるのに、脳のMRIをとったり。F野さんはまさにそこで先進的な瞑想研究をされているお方である。
Fさんが上京しているタイミングで時間をいただき、今自分がやりたいことをそのままぶつけてみた。静かにわたしの話をきいたあと、彼は穏やかにこう言った。
「いくつかの論点が混ざっているように思えますので、一緒に整理しましょうか」
しまった。これ、会社でやってたら、頭わるーって白い目で見られちゃってたやつだ。
それでも、Fさんは丁寧に親切に、混ざった論点をほぐして、様々な話をしてくださった。
結論としては、心みたいな目に見えないものを扱う場合、アカデミックに身をおくことはとても有意義だということ。そして、研究者として成果をだしてやっていくのであれば、大学院よりも学部編入でまずは研究手法を吟味する時間をとってもいいかもしれないということ。
Fさんとお話していると言葉がすっと入ってきて、穏やかに自分のフォーカスしたいテーマと向き合えたから不思議だ。
普段だったら、少なからず「変な人と思われない様に」「ロジカルに話さねば」「ここらで偉人の格言も混ぜとくか」といった”よくみられたい”意識がはたらくのに、のびのびと好きなものを話せる感じ。
わたしもそんな風に、人とコミュニケーションをとれるようになりたいものだ。
そんなこんなで、無事にたくさんの学びを得て、Fさんとの会合はおわった。そして、別れ際にFさんが例の話を持ち出してしまった。「今度滋賀県にブラジルのシャーマンがきてカンボという民間療法をやるみたいです。瞑想やられているのなら、面白いかも。」
この人生相談をきっかけに、すっかりFさんを老師として崇め始めていたので、「いってきまーす!!」と二つ返事で行ってみることにした。
これがあとで、とんでもない体験になることも知らずに・・・。
---
カンボ体験によって、すっかり瞑想の味をしめてしまったわたし。(今振り返ると、厳密には瞑想そのものより、瞑想直前にあった壮絶なデトックスが、その後の多幸感に影響しているようにも思うけど)
「こんな面白いエンターテイメントはない!!」
だって座っているだけで、めっちゃ幸せな気持ちになるのだから。お金も、場所も、人も、何もいらない。ただ座ってたら、たまに訪れる感じ。セロトニン!
当初の目的を忘れて、ただの瞑想狂になってきたところで、カンボで出逢った世界を旅する英国人アーティスト&ヒーラーのジョナサン(仮名)からメッセージがきた。
「君はどんな意図をもってカンボをしたいんだい?」
「君は何をしていく人なのかい?」
えーっと、尊敬するF野さんに言われるがままにやっただけで・・・なんて言うと、会社では主体性がないと白い目で睨まれるやつだ。もう退職するけど。
・・わたしは何のためにカンボをしにいったのだろう。
・・あの不思議な至福体験を、なにに生かしていきたいのだろう。
この問いをきっかけに、できるだけまっさらな自分で、この記事をかいてみた。
「ゼロになる」
noteの一つ目の記事である。そして、ジョナサンにはこう返しておいた。
「死や病気を自分なりに解釈したい。死や病気は単なる失敗や悪ではなくて、自分の生き様を通じたひとつの大事のサインだと思うの。」
「君もヒーラーになりたいの?」
(彼は気功などの民間療法を専門的に行っている)
「ヒーラーになりたいかはわからないけれど、生命についてもっと体験知を積みたい」
だめだ・・・まだかっこつけた言い方してるな。本当はもっとシンプルなはず。
自分が病気になったとき、死を目前に控えたとき、よってかかれる何かを見つけたいのかもしれない・・・
父のガン治療をみていて、わたしがガンになっても同じものをうける勇気や根性があるとは思えない。病院の雰囲気も好きになれないかもしれない。では自分だったらどうするのだろう。また自分の大切な人が、同じ様に命の危機を迎えたら、どう向き合えばいいのだろう。
「病気や死についての新しい視点がほしいの。自分を最後まで大切に尊く思い続けられる様な」
「君は人を癒したいの?」
「うん、そうかもしれない」
「君の志は素晴らしいよ。君がヒーラーになっても、カウンセラーになっても、医者になったとしても、大切なことがある」
「?」
「誰かを癒したいと思うとき、それはまず自分を癒すべき時なんだよ」
「??」
禅問答みたいである。心理学でいう投影みたいな話かしら?
すなわち、癒さなきゃいけない人ばかりが目につく時、本当は自分自身の「癒されたい状態」を目の前の人達に映し出してみているというもの。
「誰かを治したり癒したりしようと思っているね」
「うん」
「何かを変えなきゃいけないと思ってるね」
「うん、思ってる」
「だったら、まずは自分を癒さないと、自分を変えないと」
「・・・」
「続きは今僕のいるバイロンに来てくれたら教えてあげよう。シェアハウスの部屋を一つかしてあげるよ。」
こんな風にふらっと旅をできることなんて、もうこの先ないかもしれない。
そして、ジョナサンの言葉がどうも引っかかる。
というわけで、「だったら、まずは自分を癒さないと、自分を変えないと」という招待状のようなメッセージをきっかけに、オーストラリアに飛ぶことにした。
ああ、次の所属先も決まってないのに、のんきにジェットスターのって南国にいってる場合なのだろうか。
そんな正論も、「なんくるないさ〜あいあいさ〜」にかき消されて、ただただ禅問答の続きが気になってしょうがなかった。
thank you as always for coming here!:)