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ゼロになる

ーどんな人生にもyesという

これはここ数年わたしがはまっている妄想ゲームのテーマです。

ことの発端は、大切な人達から投げかけられた「きみに私の気持ちの何がわかるというの?」という言葉。

高校生のときに習った古文法にしたがうと、おそらく発言者は「きみに私の気持ちの何がわかるというの?いや、何もわからないだろう」と感じているのは明らか。
昔はこう言われるたびに胸がチクっとしました。

想像力をたよりに、色んな立場にたってみるけれど、どこまでいっても完全にわかるなんてことはないのだろうと思います。

そして、目の前の人の気持ちは完全にはわからないと認めた上で、本人さえわかっていない気持ちや可能性に対して、心の目を開いていたいとも思います。

こんなことを、少なくとも1日に3回くらいは考えてしまうのは、きっと過去にちゃんと向き合いきれなかった経験があるからだろうと分析しています。

大学3年生の終わり2011年の1月から約1年半のあいだ、末期の肺がんであった父と送った闘病生活の中から、とても貴重な問いを得ることができました。

・病気や死をどこかネガティヴなものとしてワルモノ扱いしてたけど、本当のところ彼等は何者なのだろう?
・西洋医学ではお手上げの状態から奇跡的に治癒した例は世界中結構あって、それを奇跡じゃなく法則として扱っている分野が非科学にはあるけど、何が本当で何が本当じゃないのだろう?
・怪しい人と思われそうで怖いけれど、目に見えない世界や現時点で非科学といわれる分野に対して、仮説をもって取り組むのも面白いかも?

というわけで、病気や死を自分はどう捉えようか、常に考えてきました。それらは自分がどう生きるかに直結することだったので。

次第に、人間に生まれてきた醍醐味である「想像力を駆使」して、父をはじめとする色んな人の人生を頭の中で経験してみることにはまります。
特に、レールから外れた、社会から追い出された、生きててもしょうがないと訴える人を見つけては、その人達の話を聞いて、自分が彼等と全く同じ設定で明日から生きるのならどんな感じがするか、日夜妄想してみました。わたしちょっと変態なのかなぁとたまに気にしながら。

ただ、少なくともこの妄想の中で、VEフランクルの如く、それでも人生にyesと言うことができれば、より純粋に彼等と向き合うことができている気がするのです。たとえ、その気持ちを完全にはわからないとしても。

どうしてもyesと言えないとき、自分の中に眠る色んな思い込み(例えば、○○しなければ、○○すべきだといった類の考え)を発見します。

そして自分の思い込みと向き合ってみる。何度も何度もストーカーの如く向き合う。そこで思い込みの一つを手放してみる。すると、また一つ、そのまた一つ、本当は必要ないのに頑張って抱えていたものに気付きます。

面白いことに、自分がこだわっていたことを手放していくと、また一つ、そのまた一つ、yesといえる妄想人生が増えていきます。すると、心の底から「あなたは大丈夫」と言える人が増えるし、その人が気付いていないその人の可能性をたくさん見つけられるようになる気がしています。

果たしてこんな自己満足な妄想ゲームに没頭していて、何の得になるのでしょう...とたまに30秒くらい悩みます。けれど、多分やめないし、やめられない。

その人を取り巻く全てのものが、その人に対してnoといっても、心の底からyesと言ってくれる一人がいれば、わたしがたくさん見つけてきた奇跡的治癒や奇跡的事象は起きる可能性があると思います。

そして、奇跡とされていたものが、科学の進歩に伴って、当たり前の法則とされていく最中に身を置きたいと思います。

※※

前置きが大変ながくなりましたが、そして唐突な感じがしますが、10月5日をもって、新卒入社から4.5年つとめた会社を退職することにしました。わたしにとっては第二の父のような存在である組織です。

新しい道を進むにあたって、たくさんの方が一緒に話をする時間を割いてくれました。そしてそれぞれのやり方で暖かく送り出して下さいました。とても感謝しています。
また直接声をかけるほどではないけれど、最近あいつどうしてるんだろう、たまには話してみたいなぁと思ってくれている方もいらっしゃるかもしれません。実はそんな方をメインターゲットに、このエントリーを書きました!

今後は、統合医療を軸に学びを深めながら、世界でいっぱい起きている奇跡的事例を自分なりに紐解いていこうと思います。

いつどこにいても、仮にたった一人になったとしても、御縁のあった方々とゼロに近い自分で向き合う時間を大切にしつづけていこうと思います。

よろしくどうぞ。


thank you as always for coming here!:)