お前らは教育の本質を見誤っている:古典の学習が意味ないとか言ってる人へ

もしかして、古典が意味ないとか本気で言ってる?

古典の学習が意味ないとか必要だとか言ってる人が誤解している。

その根幹たる原因として、教育とは学んだ内容を実社会そのものにそのまま(もしくはある程度応用させ)適用するためにあるという誤った考えが前提にあるからだと思っている。

その前提があるがゆえに、より実践的だったり社会で活用できる内容(例えばIT知識とか)を教えるべきだーだとか、例えばこういうときに役に立つから教えるべきだーとか特殊な活用事例を挙げて擁護したりとかする人が大半を占めるわけだが…

違うんだ、教育とはそういうものじゃないんだ...ってこの論を目にする度毎回思ってる(だからnoteにお気持ちを綴ってるんだけど)

教育の意味とは何か?

教育とは、社会形成の為にあるものだ。決して知識を得る為にあるものではないんだ。
我が国の教育基本法第1条は以下のように書かれている。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)
第1条:教育の目的

条文で述べられている通り、国家という社会を形成する一員として「必要な素質」を得させることが教育である。

語弊を恐れずに言うとすれば、教育とはこういったある意味思想というか、そういう類いのsomethingを押し付け、国や社会をつくるための手段の1つである。

この"教育思想"は、国のために闘うことが美徳であるとしたりとか、国家の長を崇めさせたりとか、労働を強要させたりとか、どこどこの国は敵だとか、世界は尊いだとか…。国や時代によって千差万別である。

こうした前提がある上で、日本は民主主義国家であり、2600年を超える歴史と伝統を持つ国家であり、国民性として平和的で協調性を重視する傾向にある。

古典(伝統的な言語文化)について、学習指導要領を読んで貰うと分かるのだが、「古典の世界に触れる」とか「関心を深める」とかが書かれている。古典での学びを実生活に活用させる旨のことは一切書かれていない。古典(他の全ての科目もそうだが)を学ぶことで日本国や現代社会の形成者を形成することができるとして、教育に取り入れられているのだ。古典を学ぶことで日本人というidentityを確立させるために行われているのだ。

じゃあお前が思う古典を学ぶ意味ってなんだよ

例えば、清少納言は「冬はつとめて」、つまり「冬は早朝がよい」と綴っている。
「冬の早朝は寒くてお布団から出るのも嫌だけど、それを堪えて起きて、炬燵でダラダラとスマホをいじる、そんな時間は悪くないな…」って1000年も前の人と時代も暮らし方も何もかも違うのにこういった感情的なsomethingを共有できるとか楽しくない??

俺はこういう楽しさを得るために古典を学ぶのだと思っている。
こういう感情的なsomethingが日本人のidentityに通じるところがあるのではないかと。

なぜ人は学ぶのか

自身を洗練させ教養をつけるため、太宰治の「正義と微笑」の言葉を借りるとすれば、「カルチベート」するためだ。「愛することを知る」ことだ

教養があれば、人生を豊かにできる。
山を見ても教養が無ければ「山だ」としか思わないが、教養があれば「この山はかつて徳島藩蜂須賀公の25万7千石の居城となった徳島城が建っていて云々…」となって、何かありがたみを享受できる。
別に知識がある必要はもちろん無くて、この山はどんな山なんだろうってネットで調べたり、案内文読んで見ようかな…ってなるよね。これが教養があるということなのよ。

さらにこれは小難しい話でなくてもいいのよ。ただの駐輪場でも、「花譜の私論理のMVの2分34秒で登場した場所だ」ってなるだけで人生楽しいでしょ??
んで、他のこの場所とかも今度MVで出るかもとか、ここもMVで出た場所じゃないかなーとか考えるだけで渋谷の歩き方が変わるでしょ?

「この曲いいなー」で終わるんじゃなくて「この曲の可不ちゃんのこの調声とってもカワイイ!!たぶんあんな感じでやってるだろうし今度自分も試してみようかな…」ってなると楽しいでしょ???俺だけ???

いわば人生を愛することが教養であり、人生を愛せるようになるためのプロセスが勉強であると思う。

だからぶっちゃけ言えば、学ぶ内容は別になんでもいいし、忘れてしまっても大したことは無い。忘れてても必要なときに調べて思い出せばいいわけだし、知識をたくさん持っていることよりも、わからないから調べてみようってなれるのが素晴らしいことだと思う。

ここからも言えるのが、教育に実用的かどうかは不必要であるということだ。

ここでも、太宰の言葉を借りよう。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。

太宰治「正義と微笑」

アインシュタインも同様のことを言っている。

Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school.
(教育とは学校で習ったことを忘れてしまったあと、自分のなかに残るものだ。)

Albert Einstein

だからね、古典の学習が意味ないとか必要だとかの話で古典の実用性がどうかでその是非を語ってるなら大きな誤りなんだよ。

カルチベートされた人間になること、そのために古典は、というより古典以外でも全ての学問が必要なんだ。

まとめ

教育の本質とは社会形成である。
勉強は自身を洗練させ教養を得るために行うものである。すなわち、実用性だけを重視してやるものではない。

俺も今年で大学を卒業するけど、これからもまだまだ勉強しなきゃな

俺ボカロPなのになんでこんな話してるんだろうね???

ここまで読んでくれてありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?