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「勝浦川」その18.横瀬橋

勝浦川には、棚野と横瀬の間に横瀬橋が架かっている。
敏雄は、その横瀬橋の棚野側の袂に立って逡巡していた。

前年、敏雄は生きて帰ることはないと思って此の橋を自転車で渡った。予科練に入隊して特攻機で敵に突撃したいと父に告げたとき、父丈三郎はそれを許してはくれなかった。

昭和13年(1938年)に末妹が生まれたときも、母のゆきえが「勝子」という名にしたらどうかと提案したのだが、争い事(戦争)は好かんと言って「和代」という平和な名をつけた父であった。そんな父の反対を押し切って昭和19年(1944年)10月15日岡崎第一海軍航空隊に志願入隊した敏雄だったが、そのとき15歳だった。

だが、海軍航空隊といっても、船に乗ることも飛行機に乗ることも外地に往くこともなく、入隊してすぐに西伊豆に在る田子海岸の洞窟に造られた特攻基地に赴任した。本土決戦を想定して敵艦隊に魚雷を抱いて体当たりする特攻艇を洞窟に格納するための穴掘り作業をやっているうちに、日本は敗けた。武装解除され復員して横瀬橋の袂まで戻ってきたのが昭和20年(1945年)9月だった。

勝浦川の向こう岸に家が見えていたのだが、どんな顔をして帰ったらよいのか。両親になんと言えばよいのか判らなかった。

敏雄が家に帰ると、妹の美代子と和代が飛行服を着たまま帰ってきた兄を見て驚いたが、敏雄は飛行服の内側に砂糖を詰め込んだ袋をいくつも首から下げていた。砂糖は貴重品だが、武装解除されたときに一人ひとりが配給を受けたものだった。

命懸けで戦いに行き、持ち帰ったのが砂糖だったというわけだ。だが、美代子と和代は砂糖に飛びついた。

丈三郎は「もんたんで?」と言っただけだった。


家には、丈三郎の弟である政信叔父が徳島空襲に遭ってから疎開していたし、やはり戦災で家を失ったつね子叔母の家族が身を寄せていたので大所帯になっていた。父丈三郎は、そんな弟姉たちを黙って受け容れたし、母ゆきえもお接待するかのように迎え入れていた。

そんな叔父叔母たちが居るところへ、少し遅れて叔父の有(たもつ)家族が満州から引き揚げてきた。だが、幼い男の子は瘦せ細り叔母は坊主頭だった。五・六歳になる女の子がいたはずだったが満州で病死したと叔父は言ったきり、それ以上詳しいことは言わなかった。


思えば、敏雄は生まれてからずっと戦争の時代に育った。
神州の不滅を信じて疑ったことはなかったし、この国は正義の戦いを行っているのだと思っていた。だが、この国は敗けた。それもこてんぱんに敗けた。十六歳の敏雄にはその理由が解からなかった。

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