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「勝浦川」その16.みかんの花

丈三郎もゆきえも、毎日墓参りしてから山の畑に向かう。喜平を埋葬した墓のネキ(傍ら)にアカシア(ニセアカシア)の白い花が咲いていた。

山の畑では、喜平と丈三郎が植えたみかんの花が芳香を放ちながら咲いている。


喜平は、所謂“台湾旅行”から戻ってきてから熱心に山の土地の値段を調べ出した。そして山奥の土地を購入し「おまはん炭焼きと石積みしよって山拓くんじょ。いけるで?」と丈三郎に訊ね、丈三郎が「ほなけんど、山をどうしょんですか?」と訊ねると、喜平は、山にみかんの木を植えると言うのだった。

あれから十年以上の年月が経った。
丈三郎もそうだったが、喜平は人一倍いや二倍も三倍も働いた。それも還暦を過ぎてからだった。

では、何故みかんだったのか?

あのとき、喜平は丈三郎にこう言った。
「山買うて、ヤマモモやすだち作るんとちゃうんで、みかんじゃ。皆がみかんを食うようになる」

農産物といえば、まだ米や麦をはじめ豆類芋類や茶が主で葉野菜の流通も少なく、生食の果物は貴重で流通も少なかった。だが、明治31年(1898年)に農学博士であった福羽逸人が国産第一号の苺を作り出して皇室に献上し、大正時代には全国に普及させた。また、明治になって欧米からりんごやぶどうが入ってきて各地で作られるようになった。また、明治35年(1902年)には農総務省農事試験場園芸部が静岡県の興津に創設され、果樹園芸の分野で日本の風土に適した品種を選定することと果樹栽培技術の開発と技術者の養成を目指した。

特に温州みかんは、明治になって増産され始めた果樹の代表格だ。古く中国から入ってきたと謂われているが我が国固有の果樹であったにもかかわらず明治時代まではあまり作られていなかった。

それには理由がある。
みかんと言えば、紀伊國屋文左衛門が嵐の海を船で運んで財を成したという江戸時代の伝説が知られているが、あのみかんは“温州みかん”ではなく“小みかん”である。小みかんは紀州で主に作られていたが、現在の小みかんと違って当時の小みかんには種があった。

武士の時代、“種が無い”温州みかんは疎んじられ忌避され、“種が有る”小みかんが食べられていた。

喜平の周りにもヤマモモや温州みかん、そして柚香(ユコウ)、すだち、柚子などの雑柑はあった。だが多くは農産物として作られていたというよりは自家用に数本の樹が敷地に植わっている程度だった。

喜平が山を開墾して温州みかん作ろうと思ったのは、所謂“台湾旅行”がキッカケだったのだろう。小松島から和歌山に渡り東海道を上って横浜か東京まで行った。その往復の途中に何を見たのか、何を考えたのかは不明のままだが、喜平が「これからはみかんを作れば売れる」と思ったことは間違いない。

その確信がなければ、全財産をつぎ込んで長い年月をかけ困難な山の開墾事業などやるはずはなかったのであるが、喜平が確信したとおり喜平と丈三郎が作った温州みかんは貴重で高値で売れた。併せて、多くの者たちが温州みかんを栽培するようになり、勝浦川流域が産地化しはじめていた。


丈三郎は、喜平がみかんが実った畑を見てから亡くなってよかったと思った。


※参考:農商務統計表
※参考:梅谷献二・梶浦一郎著「果物はどうして創られたか」

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