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「勝浦川」その3.筏流し

喜平が、一度台湾に行ってみようかと思ってから既に何年か経った。
喜平の家は、息子丈三郎の嫁を迎えていた。

嫁の家は棚野村に在って喜平の家から見ると勝浦川の対岸に見えた。
嫁は、丈三郎より二歳年下で丈三郎と違ってよく笑うゆきえという娘だった。

棚野村は勝浦川に沿っている。江戸時代、勝浦川流域には徳島藩の広大な天然杉の美林があった。やがて「徳島すぎ」と命名されブランド化されることになるのだが、この話の当時は山から伐り出した木材を川に落とし、筏に編んで流下させる筏流しが行われていた。川を流れ下れば勝浦川の河口や小松島港まで運ぶことが出来た。その木材は船で紀州や大坂へ運ばれる。だから勝浦川沿いには、昔から木材流送を生業とする筏師も大勢いたのだった。

棚野村に少しは平らな土地も在ったが、ほとんどが急傾斜地と山林から成っている。人々は林業や炭焼きを生業とせざるを得なかった。それは喜平の家も例外ではなかった。喜平と息子の丈三郎が畑仕事と炭焼きを交互に担って暮らしの糧を得ていたのだった。

嫁を娶った丈三郎にも、やがて子が産まれるだろう。そうなれば食い扶持が増えて暮らしが苦しくなる。喜平夫婦にはまだ学校に通わせている子供たちもいた。

そんな折、明治政府が募っていた台湾への官営移住に興味をもつ村人たちが集まると、誰か台湾見学をしてきたらどうかという話になった。

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