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共感的に聴くという意味が実はまだよくわかっていない。

共感的に聴く。

という意味が実は未だに腹落ちしていない。

共感的に聴くというのは,
「7つの習慣」で言うと,単なる傾聴や積極的傾聴のことを指していなくて,コヴィー先生の言葉を借りるなら「相手の目や耳を使って」聴くということです。

しかし,現代カウンセリングの父とも言うべきカール・ロジャースの来談者中心療法で言う共感的傾聴というのは,この感じとは遠からず近からずなのではと感じているのです。

同調するでもなく,同意するでもない。
同情ではもちろんないし,賛同するわけでもない。
しかしまるで自分事のように聴くという意味で,同調していないわけでもない気もします。


しかし,毎度思うのは,あきらかに「それアンタちゃうやろ」と思いながら,「そうなんですね」と相づちをうつのはなかなか至難の業で。

でも元々,自分がそう思うことと,相手がそう思わないかもしれないことはとても当たり前のことで,自分がそう思うことと,同じ事を相手が思うだろうなんて思っていることが,最初の思い込みなのですから,「それアンタちゃうやろ」と思うこと自体,おこがましいというか,勘違いというか,それこそ「それアンタちゃうやろ」と相手から言われてもおかしくないわけです。


相手の目や耳を使ってしまったら,それはもう相手になってしまっているのと同じな感じもします。

ただこれだと確かに「それアンタちゃうやろ」にはならないですね。

痛みを痛みと感じてあげることができるでしょうし,苦しいと本人が言うとき,それを体感しようという気持ちで聴いていれば,苦しいと感じていることを疑うことなく聴いてあげられるでしょうね。

あとはそれに飲み込まれないように,バランスをとりながら聴くということなのかもしれません。

まとまりがなくなってきましたね。
コレもまだ僕が迷いに迷っている証左なのかもしれません。

共感という概念は本当に難しいと思っています。
もう少しいろんなひとの話を聴いてみたいです。

サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。