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諦めても良いのか。その方が合理的なのか。

失敗を怖がる子どもが増えているような気がします。

無理
最悪
ぜったい無理
やれっこない
詰んだ
ガチャ失敗

あたかも,何か強制的なチカラのせいでできなくなっているような,どこか他人事のような,ことを言います。

だから諦めても仕方がない。これ以上やりたくない。やらなくてもいい。やる意味がない。合理性や効率性を引き合いに出して,やらないことが正解かのような振る舞いをします。

間違えると叱られると思っている子どももいるようです。
事実,叱られることも多いのでしょう。


間違えて叱られるとか,ちょっと何だろう,正答しか口に出してはいけないとするとこれはまた違う問題が生じてしまいますが,実際そのようなケースはあるんでしょうね。

大事なことだから1回しか言わないぞー。
ってよく聞きますしね。


大事なことならたくさん言えよ

とつい思ってしまいますが,


しかしだから失敗するのを恐れるというのは,やっぱり少し違うと思うので,物事の見方を変えるように子どもたちには伝えたい
そんなことを常々思っています。


クチに出すことで,自己暗示がーとか
ネガティブワードは実現しちゃうからーとか
ポジティブシンキング的な考え方をしているわけでは決してないのですが,無理とかできないとか,失敗を恐れるマインドセットでは,論理的に正答にたどり着くことができなくなってしまう点で問題があると考えています。

がんばれば何でもできるということではないです。
けれど,だからがんばらなくてもいいということにはなりませんから,達成したいと思うなら何かしらがんばるしかないです。

あきらめるのは今すぐできますから
もう一回だけチャレンジするのはアリです。

僕らはついつい無い物ねだりをして
「ない」ことを理由にしてしまいます。
「ない」ものは「ない」のです。
文句を言っても,塞ぎ込んでも,弱音を吐いても,友だちに当たり散らしても,お父さんやお母さんのせいにしても「ない」ものは出てきませんし,使うことはできません。


今あるものをどう使うか。
リソースをどう配分するか。
持ってないものをどう補うか。代替できるものはあるか。

結局僕らにできることってこれしかないと思うんですよ。
ないものを悔やんでも,あることにはできないし,あるように振る舞ったとしてもないことには変わりがないから,それだけじゃぁ前に進めません。


合理性や意義を並べて,失敗するからやらないと決めることは自由です。
しかし,その論理でいくといつまでたっても成功しないのですから,成功を諦めることが条件になってしまいます。
そうやっていくつもいくつも諦めていて,やれること,やれそうなこと,失敗しなさそうなことだけやっていては成長できなくなってしまいます。


だから僕は毎日のように
子どもたちには,伝えています。

諦めたら,そこで試合は終わりだよと。

安西先生のあの言葉は案外深い言葉です。
裏を返せば
「諦めなければ,試合は終わらないんだよ」と言っておられるのです。

ホイッスルが鳴っても,諦めなさえしなければ君の「試合」は終わらない。この試合の結果がたとえ「負け」だとしても,そこで諦めなければ本当に目指す目標へのチャレンジという試合は終わらないんだよ,と。
だからまだ諦めるな。
次がある。
試合を終わらせるな。何が何でも食らいつくんだ。
そうおっしゃっているのです!

#そこまでは言ってないかも


欲しければ手を伸ばせ。
届かなければもう少し手を伸ばせ。
それで届くかもしれないし,届かないかもしれないけれど,いずれにしても手を引けば届かない事実は変わらない。



追伸

利益の上がらないプロジェクトをどうするのか。
含み損が止まらない株はどうするのか。
費用対効果とか損切りとかはまた別の話。


サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。