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「全集中の呼吸」は古いのか。

集中が切れて上の空になっている生徒たちに,思わず「全集中!」なんて声を掛けると,たいてい「先生古い」って返ってくる。


僕の感覚では,「古い」ったってつい先日までワイワイガヤガヤしていたじゃないのと感じているのだけれど,どうやら中学生にとっては鬼滅の刃が流行ったのはもう遙か昔のことのようだ。


僕の1時間と,彼らの1時間はきっとその厚みが違うんだろう。

これまで生きてきた時間を分母とするなら,1時間の重みはまったく異なるのだから仕方がない。だからこそ,子どもたちの1時間は後の数年間,下手すれば数十年間に変わる可能性を秘めている大事な1時間だ。

彼らからすれば,その大事な1時間を勉強なんかに費やすよりも,ゲームをしたり友だちとおしゃべりをしたりしたいのだろうなぁと思う。未来の自分がそれをどう思うのかに想いを馳せられる子どもはそんなに多くはない。



僕らはその一つ一つの行動に「目的」を意識した方が良い。

この大事な1時間を何に費やすのか,それはいったい何のためか。

YouTubeをみても,TikTokをみても,ゲームをやっても,テレビアニメをみても構わないけれど,目的のない行動はやめたほうがいい。

目的をもってTikTokを”観る”,YouTubeを”鑑賞する”のがいい。


あるいはゲームを楽しんでも良いし,その目的が人生の目的に繋がるものなら全力でやったらいい。24時間のすべてを勉強のために費やす必要なんて最初からないし,勉強だって目的のない勉強ならやめた方が良い。

ノートを1ページ埋めるための漢字練習。
テキストの回答欄を埋めるための課題演習。
惰性で垂れ流される映像授業。

(TikTokやYouTubeが恐ろしいのは,観ることを目的としているようでそうでなく,実はそのコアは”惰性”で映像を垂れ流させることを目的としているシステムだ。その意味で麻薬と同じだとすら思う。使い方を間違わなければすごいシステムなのに,使い方を間違わせるような工夫がそこかしこにされている点でこれまたすごいシステムだと言わざるを得ない。)


そういう目的を見失った行為は,勉強だろうが,遊びだろうが,関係なく「重要でなく,緊急でない」。
大げさでなく人生から削っても問題ない行為だ。

”あそび”がなければ緊張の糸は張り詰めつづけるという点で,一息つく意義はあるのだからゼロにすることはできないだろうけれど(あるいは,してはいけないだろうけれど),それでも1日に5時間もTikTokをみているという話を中学生から聞くと,なんともいたたまれない気持ちになる。

思わず,それはやめた方が良いと言いたくなる。



自分を変えるには,習慣を変えること。
習慣を変えるには,行動を変えること。
そして行動を変えるには,物事の見方を変えること。

大切な1時間を,後の数年間に匹敵する大切な1時間を,とりあえずはTikTokに費やす5時間のうち1時間でもいい。人生の大いなる目的のために費やそう。未来の自分がよろこんでくれるような大切な時間にしようじゃないか。


そのためにも今ココに,全集中だ!

サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。