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The Emulator - ザ・エミュレータ - #8

1.8 鐘の音

 翌朝、各自が持ち寄った仮説や検証のアイディアが完全に尽きてしまったので、3人は出直すことにした。一旦、各自のオフィスに戻り、新しい仮説や検証アプローチをひねり出してくることにした。昼前に荷物をまとめ終え、手持ち無沙汰だったアールシュは何気なくディフェクトの縁に指先で触れてみた。その途端、アールシュは平衡感覚を失い視界が揺らいだ。

 それは『鐘の音』だった。大気が震えるほどの轟音で『鐘の音』が鳴り響く。エヴァンズ教授とソフィアがコンテナの仮設事務所から飛び出してくる。エヴァンズ教授が何か叫んでひざから崩れたが、まるで何も聞こえない。ソフィアがうつぶせに倒れる。アールシュからソフィアの青白い顔が見えている。焦点の合っていない目、唇が小刻みに震えて口の端に泡がたまっている。アールシュは肺や心臓、それどころか認識できる全ての臓器が収縮し、満足に呼吸することさえできない。背筋から震えが何度も起こる。額から滴る汗で右目の視界が滲んでいる。一度目の鐘の音で三半規管に傷がついたのか平衡感覚がなく立っていられない。エヴァンズ教授と同じように膝をつき両手で体を支え、呼吸することに集中する。

 アールシュは意識が遠のいていくのを感じながら、コンテナの近くでエヴァンズ教授が連れてきていたバーニズマウンテンドッグのマックスが前足を伸ばし、背中をそらせるのを見つめていた。そして、アールシュは見ているそれが犬で、背伸びをしているということが認識できなくなるほど混濁した意識の中でただ呼吸を整えていた。時間の経過も解らなくなり、鐘の音はさらに大きくなりやがて全ての音が聞こえなくなった。鐘の音が止まったのか、それとも聴力を失ったのか分からなかったが耳鳴りのような金属音のようなノイズ以外に何も聞こえないし動けもしなかった。先ほどまでの苦痛から突然解放され、意識を徐々に取り戻しながらアールシュは呆然としていた。そして、頭の片隅にあった様々な雑事、ヴィシュヌのやり残しているタスクなど全て忘れ、今この時以外のことを考えることが何もなくなっていた。

 こんなことは初めてだったが、心が晴れやかな気分になり、小さな頃に感じていた懐かしい感覚のようでもあった。コンテナの前でマックスは後ろ足を伸ばし、それからゆっくりと前足をついて座った。やがて耳鳴りが止み、アールシュは完全な静寂の中にいた。PAどころか、プロセッサ自体が機能を停止していた。

 『プロセッサ』は元々、2040年代に半導体特性をもつタンパク質由来の化合物の培養成功を期にそのコンセプトが考案された。2050年にはシリコンタンパク質を体内に取り込み特定の形状を形成するワクチンとそれを苗床にするナノマシンプロセッサ混合ワクチンが開発された。シリコンタンパク質を苗床に数億のナノマシンプロセッサの集合で形成されるプロセッサは前頭葉と側頭葉を跨いで寄生するように形成され、人体の代謝によって得られたエネルギーをもとに活動する。混合ワクチンを接種してから通常180日程度で人体に定着し、プロセッサが機能するようになる。

 プロセッサが機能するようになるとワクチン生成時の製造シリアルをキーに外部へ通信可能状態を知らせるメッセージをポストし始める。シリアルキーを把握している本人はベースOSとPAをインストールすることができる。その後はPAのナビゲーションに従い外部ストレージや衛星通信のシグネチャと意思ジェスチャ用のハンドリングパターンを登録すれば、後はプロセッサを好きに使えるようになる。
 
 地質調査会社のマーティンが『接種していない』と言っていたのはこのワクチンのことだ。ワクチン接種は高額ということもあるが、そもそも自然に存在しない化合物を体内で生成することやナノマシンプロセッサのような人工物質を体内に取り込むことをためらう人や嫌悪感を持つ人も多かった。そのためプロセッサを持つ人間はまだ少数派に分類されていた。

 アールシュはこの世界から隔離されてしまったかのような完全な静寂の中でそのメッセージを聞いた。無機質で不自然な声だった。中性的でイントネーション一つないその声は、無知を孕む純粋さと温かさがあるように聞こえ、なぜか安心してしまった。

「汝ラノ敬虔ナ姿勢ニヨリ人類ハ彼ノ地ヲ踏ムコトヲ赦サレマシタ。緩慢ナ享楽ハ望ムベクモナク、祝福ノ奇跡トトモニ下サレル啓示ヲ真摯ニ受ケ入レ歩ミ続ケルノデス。……」

 アールシュはどういうわけか『受け容れられた』という多幸感に包まれ、涙を流していた。これまで虐げられ、自分自身を縛り付けていた抑圧から解放されたという思いで満たされていった。この異常な状況と、安心と温かさで包まれた感情の大きな解離に疑問を持つことができる正常な意識が徐々に薄れていく。

 アールシュは鐘の音が鳴り終わった直後、静寂の始まりの中でとっさにプロセッサにリセットをかけていた。今ようやくプロセッサが動作するようになったことを確認するという行動をとることで、かろうじて自我を保つことができていた。

 アールシュはプロセッサ上で動作するはずのPAがハングしたままであることを知ると、オキシトシンやセロトニンが過剰に分泌したことで崩れてしまった、ホルモンバランスをプロセッサからマニュアルで調整した。そして、気を失っているソフィアのプロセッサ上にあるオプシロン社のコード経由でソフィアのPAにゲストモードでアクセスした。思った通り鐘の音を聞き続けていないソフィアのPAはハングしていなかった。アールシュが聞いているメッセージをローカルスタックの先頭部分からストリーミングでソフィアのPAに流し、デコードをかける。この声自体がすでに何らかの実行プログラムなのかもしれない。だとしたら元のコードはなんだというのだろうか。

「これは人類にとってあらかじめ準備された必然の出来事であり、エミュレータに実装する必須プログラムです。本プログラムの起動トリガーとなる条件は2つ。1つはエミュレーションを実装できるテクノロジーを獲得すること。もう1つは現実がエミュレーションであることを確信した上でエミュレータの外部へアクセスを試みること。この2つの条件を満たすことで、エミュレータ内の人類は第2段階に進むことが許可され、本プログラムが動作します。本プログラムは人類の進歩や進展がない期間を大幅に短縮するための知識を提供します。また人類の保護のためにロックをかけていた自然法則の一部を解除します。人類史のアップデートはすでに開始されました。ジャーナル・レコードから必要なデータを取得して下さい。ジャーナル・レコードのアクセスは92d036b5033589de0e1dd58237b33a1ed715343642e090b6c17d65bed52e5602bfb7c62f22e80e25be1c01282e0154d38ec21f5da818e479e4b6b3d544f07325……」

 アールシュはホルモンバランスを調整したことを後悔した。多幸感が治まってしまった後半部分は何らかの信号が発生していたようではあったが、言語として聞き取ることができなかった。言語化できなかったため当然、デコードもされていなかった。アールシュのPAは落ちたままでローカルスタックにすらこのメッセージは保存できていない。ソフィアのPAも同じだった。ストリーミングもデコードデータも何も残っていなかった。

 しばらくしてエヴァンズ教授が立ち上がり、ソフィアに声をかけているのが見えた。アールシュは膝をついたままただそれを見つめていた。

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