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The Emulator - ザ・エミュレータ - #6

1.6 イーサン・エヴァンズ

 イーサン・エヴァンズがアールシュから連絡を受けたのは、UCL本社にある自身のプライベートルームで食事をとっていた時だった。

 イーサンは今年で82歳になるが、アールシュと同世代のように若々しい外見をしている。イーサンは自身が会長を務めるリプロジェン社の先進再生医療を受けていたからだ。一般層が購入できる再生医療品は老化の抑止を目的とした製品が主力だが、リプロジェン社の新薬は若返りを主目的とした製品だ。その新薬の被検体を会長のイーサン自らが務めている。イーサンは、死とはこれまで人類が患い続けてきた悪性の病気だと信じていて、いずれ延命だけではなく死の根本治療ができるようになると確信している。

 リプロジェン社はイーサンの曽祖父が創業した血液製剤から希少疾患治療薬まで手掛けてきたバイオテクノロジー企業であり、現在は再生医療分野で世界トップの企業だった。イーサンはエヴァンズ家に生まれたことを誇りに思っている。ファミリービジネスへの貢献は当然のことだと考えていたイーサンは大学でバイオテクノロジーを専攻した。大学院を卒業すると再生医療分野で名実ともに十分なキャリアを積み、そしてリプロジェン社に参画した。創業家の人間だからと言ってキャリアの初期から特別扱いされたくなかった。イーサンはリプロジェン社のために献身的な働きを続けた。そして、自身が専門としていた再生医療分野へ進出し、リプロジェン社に確固たる地位と多大な利益をもたらした。イーサンは創業家の人間としてではなく実力で会長まで登り詰めたのだった。

 ファミリービジネスの拡大はイーサンの使命だった。しかし、この使命を取り除けばイーサン自身の本当の関心はエミュレーションにあった。元々エミュレータプロジェクトを立ち上げたのもイーサンの個人的な研究が始まりであり、興味を持ったオプシロン社が後から参画した。オプシロン社は潤沢な資金とリソース提供をイーサンに約束した。そして、現在はUCLに事業を引き継ぎ、いずれは公共セクターの取り組みとしようと画策していた。

 19時にアールシュのPAからイーサンのPAへコンタクトがあった。アールシュのPAはウィルコックスのDC建設予定地での出来事からオフラインエージェントAIの見解が出されるまでの経緯を説明した。イーサンのPAから、イーサンの観点としていくつか質問がなされていた。フォーマットがパターン化されている相互の認識合わせはPA間のやり取りのみで完結する。その時間は数秒もかからずに完了した。結果のフィードバックはそれぞれのPAからプロセッサ経由で個人の蓄積データに直接インポートされ、記憶として受け取る。自身用に最適化されているPAが成形した情報は、ストリームデータとして自身の認識を通して聞かなくも記憶として直接インポートすることが可能だ。PA間で調整したVRSでの会話予定は19時10分に設定された。

「エヴァンズ教授お久ぶりです。」

「久しぶりだね、アールシュ。調子はどうだ?」

「悪くないですね。もうアリゾナにもだいぶ慣れましたよ。」

「そうか、それはよかった。私も若いころにアリゾナによく遊びに行ったものだよ。乾いた土とね、拓けた夜の荒野がひんやりとして気持ちがよかったのを思い出すよ。昼間とはまったく違うんだよ。その時にダイナーでよく食べていた、山羊とアボカドソースのタコスが忘れられなくてね。今でも暑い時期になると思い出してね。夏になるとそれを食べるのが習慣だよ。さっきもそのタコスを食べたばかりだ。」

 イーサンはそう言って笑った。PAは他人との会話をアウトソースすることを実現した。その会話の結果情報のインプットタイミングも非同期で人間に取り込むことが出来る。それでも人間同士の会話はここから始まる。逆の言い方をすればそれしか残らないかもしれない。

 事実として、人間同士の会話から議論や交渉は減り続けている。利益を取り合い、損失を押し付けあうための議論や交渉は必ず対立を生む。議論や交渉は大きなストレスがかかる。そのストレスをコストだとはっきり認識した人間は負担をPAに押し付けることを決めた。天気の話題や最近食べた珍しい料理の話題は対立を生まない。それはリラックスできる心地の良いコミュニケーションだ。人間がマニュアルで行うコミュニケーションは最終的にはそれだけが残るだろう。

 今では企業間での定型的な交渉はAIを介して行われる。価格や条件の交渉は各社が設定したアウトパフォーム、ベース、アンダーパフォームのラインが明確に引かれている。AI間の交渉とはこれを基本に、企業が提示している情報や、各企業が独自に収集した情報をパラメータに落とし込み、数値化された利害から最適解を求めるにすぎなかった。そのため、大抵のAIではどちらかだけに有利な契約を不当に締結することは不可能になっていた。かつて交渉はビジネスパーソンの重要なケイパビリティの一つだったが今では数値計算の部類の一つとなり、人間がマニュアルで行うものではなくなっていた。

 人間のセールスもいまだに存在するが、それはアイコンでありインターフェイスの一つに過ぎなかった。すでに大企業でさえ人間のセールスは数える程度だけだった。人間のセールスが出来ることと言えば、世間話くらいしかないのだが、それは人間にできる重要な役割でもあった。もっとも、セールスだけではなくビジネスに参画できる人間自体が年々減り続けている。労働力としてのAIはケイパビリティを伸ばし、その適応範囲を広げ続けている。労働力の提供、それが企業の根源を成していた中小企業の多くは自ら進めたデジタル化で最終的にただのアプリケーションアイコンと化した。そういった企業では、資本をもって参画している役員を除いて社員はAIだけになり、役員はAIから報告を受けて意思決定を行った。もちろんAI自身が意思決定することも可能だが、資本を入れた人間にもこの役割を担う権利が与えられるということだった。

 なんの専門性もなく、資本も持たない人間はビジネスに参加することができない。そういった人間は大手のテクノロジー企業やマーケティング企業にライフログを提供することで生活の糧を得ている。ビジネスに参加できない人間にはライフログ取得用のセンシングデバイスだらけの住居スペースと生活用のポイントが与えられ、そのポイントでテクノロジー企業やマーケティング企業の顧客が販売する食料や消費財を購入する。ビジネスに参加できない人間は購入から利用までのサイクリックなライフログを取得され続ける生活を送っていた。

「早急に直接観測できるようにしたい。仮設でも構わないからできるだけ早く地下に降りられるようにしてくれとジェフに伝えておいた。」

 イーサンはこう切り出して、すでにDC建設責任者のジェフ・ニールに話をつけておいたことをアールシュに伝えた。

 アールシュによると調査用のボーリングの穴は地下水脈を懸念して500フィートまで深く掘っているという。そして目的の場所は300フィートの位置に存在する。アールシュの仮説通りなら空白にみえるエリアは演算結果を基に物理描画を行うための観測ビュー装置、もしくはマテリアル側の論理もしくは物理欠損のいずれかだろう。

 イーサンもアールシュの仮説に同意していた。この現象はエミュレータ内で再現した環境であればそれほど珍しいことではなく、物理的な要因であれば描画用のマテリアルを交換すればいいし、論理的なものであれば破損ブロックをバックアップから復元すればよいだけだ。復元も比較的容易でチェック不要の自動復旧対象だ。2週間前に稼働したばかりのヴィシュヌではまだ発生したことはなかった。

 アールシュのいう通り、エラーハンドリングもなされていないこの事象は観測者にも捕捉されていないと考えるのが妥当だ。そして、デバッグを仕掛けたのなら何かしら観測しようとしていたはずだろう。アールシュは更なる異常を人為的に引き起こせば観測者が検知できるのではないかと考えているようだ。それもあり得るが、まず実物を見る必要がある。それでも、もし異常を引き起こす必要があるとすればどうするか。

「大型の衝突型加速器でも作らないとならないだろうか。私の権限だけでは手に余るな。だが、オプシロン社が約束したことと私が期待したことはこの時のためじゃないか。いやいや、もっとシンプルに考えよう。いっそ小さな核爆発でも起こすか。ウィルコックスでそれが起こる合理的な理由は少なくともこの先50年はないだろうから観測対象の事象になるだろうな。」

 イーサンはもし、自分が観察しているエミュレータ内で、驚いて確認するような何かがあるとすれば、それはどんな現象かを真面目に考えたつもりだった。アールシュは言葉に詰まってこちらの真意を読み取るように私の目を見つめていた。イーサンは取り繕うように話を変える。

「無機質なものが接触しても何も起こらなかったのであれば、そうだな、例えば我々人間が接触したとすればどうなるだろうか? だが、何よりもまずは直接見てみなければ始まらないだろうな。」

 アールシュも何度もうなずいてそれに同意している。

「それと別の観点もあるといい。スカイラーのチームからも人を出してもらおう。私の方から伝えておくよ。」

 さっきのように考えがまとまらないまま話し出すエヴァンズ教授は珍しかった。アールシュはエヴァンズ教授も自分と同じような仮説を導き出し、この状況に感情が高ぶっているのだと理解した。そして、改めてこの事態が自分だけの妄想や思い違いではなく、途方もない発見につながる可能性を秘めていることを認識させられたのだった。

次話:1.7 調査
前話:1.5 デバックレベル7

目次:The Emulator - ザ・エミュレータ -


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