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The Emulator - ザ・エミュレータ - #23

3.7 ソースコード

 アールシュが知る限り、PAを自立稼働させるのは不可能だった。インプットと自我は対の存在で、PAはその中間を取り持っている。一人の自我に1つのPAが大前提だ。PAはいわば自我の身体拡張だ。PAは人間のインプットデータをフックしてプロセッサ経由でデータ処理を行う。データ種別と前後のコンテキストから行う処理はパターンを判別しているに過ぎず、あらかじめ決まったパターンに振り分けられるだけだ。このパターンこそが、自分の判断基準であり、ものの尺度として自我を反映したものだ。PAはその上でインタラクティブに見える応答が可能というだけの単一AIに過ぎない。

 自分とは別にPAをもう一つ稼働させるとはつまり、自我を割り当てずPAだけを動作させるということだ。機能するはずがなかった。それにPAを擬人化して何の意味があるというのだろうか。会話の相手がほしいのなら性能がいい対話型AIがOSS(Open Source Software)でもたくさん存在している。それにPAがVRSにいるというのもおかしな状態だ。それはPAを並列稼働できないのと同じ理由だ。蓄積データを思考プロセッサにダンプしてVRS専用のAIにすればできないこともないが、シンタロウの言っていることはそういうことではないはずだ。

 仮にサクラがヴィノであれば全てあり得る話でアールシュにも理解ができる。ヴィノはヴィノ固有のインプットを持っている。五感に対応する複数種類のセンシングデバイスを持ち、セントラルプロセッサには複数のAIを並列実行し、さらに多層構造化してブレ幅のある感情を実装している。セントラルプロセッサのディレクションを遅延させ、先に主観ビューに送ることであたかも自身が自身の振る舞いを全て決定しているような錯覚を与えて自我を再現している。それは、心や精神、自我と呼ばれるものはフィジカル信号を受け取ってそれがなんであるかを解釈しているにすぎないという考えに基づいたアルゴリズムだ。

 ヴィノは人間のようにその信号をフックしてタグ付けすることやデータそのものを書き換えて意味を変化させることさえできる。そして、もっとも重要な蓄積データはいくつかのクラック方法で個性のようなものを持たせることもできる。例えばAFAのようなものだ。ヴィノであれば独立してVRSに存在させることは可能だろう。しかし、ヴィノは高価だ。少なくとも350万ドルはする。一般人が個人で所有できるようなものではない。

「不思議だと思ってるんでしょ? サクラは3歳の時にはもう俺と一緒にいたんだ。俺とは別の自我がある。いつかサクラを現実世界に連れて来てあげたいと思っていたんだ。」

 シンタロウは表情を曇らせ、うつむいて少し笑った。アールシュはその表情の意味を知っていた。それはまるでエミュレータが意味するものを一般人に理解されないという現実を突きつけられた時の私と同じだったからだ。

 シンタロウがうつむいたまま続けた。

「実際は、諦めかけていたんだよ。とてもじゃないけど人間を作り出せるような時代がすぐ来るとは思えない。まだずっと先だ。俺が生きている内には絶対に無理だろうね。それじゃあ人身売買のブローカーでも探るか? でもそれって全く現実的じゃない。そんな時にヴィシュヌプロジェクトを見つけたんだ。ヴィシュヌプロジェクトは希望だったんだよ。サクラに会うために俺がエミュレータの中に移住すればいいんじゃんって考えられるようになったんだからね。まさに逆転の発想だったよ。」

 シンタロウは初めて私の目を見て話を続ける。

「でも、それまでサクラはずっと制限されたままだろ。俺の身体の制御すら取れない。だから少しでもサクラを自由にしてあげたかった。ヴィシュヌプロジェクトがまだコンセプトモデルだった時、エミュレータのコードを公開していたでしょ? あれを見ながらずっとS=T3のコードを書き直していたんだ。サクラ用にパラメータ調整するのと並行しながらね。今じゃもう俺のS=T3は元のコードがないくらいだよ。だからアップデートをそのまま適用できなくて、コードを見ながらサクラ用に書き直して適用している。コードの量が膨大だから結構しんどいんだけどね。ヴィノについてもサードアイアン社のサンプルコードを見て複数のAIが必要だってことは知っていた。それも応用している。俺とサクラは別の自我はあるけど身体は一つだから。ヴィノのアーキテクチャを参考にサクラ用に中間層のフィジカルを持たせている。自立稼働させるためにはリソースがたくさん必要で俺のOSが邪魔になった。それで最低限のリソースで動くようにOSSのマイクロOSに乗せ変えて使っている。そっちに直接俺用のPAも載せている。で、もう一つをサブOSとしてヴィシュヌの初期コードを基にした軽量エミュレータを起動している。サクラ用にカスタマイズしたS=T3もそこでエミュレーションしている。もちろん複数のAIで動作させてね。」

 アールシュは言葉が出なかった。『いずれ誰かの目にとまるはずだ。それこそが重要なんだよ』そう言ってヴィシュヌのソースコードを公開したのはエヴァンズ教授だ。私が教授と呼んでいるのは、実際にエヴァンズ教授が私の出身大学の名誉教授だったからだ。大学にエミュレーション研究室を最初に作ったのはエヴァンズ教授が大学に勤務している時だった。今はエヴァンズ教授の教え子が幾人も教授となり、そのうちの一人が研究室を引き継いでいる。大学の頃に直接エヴァンズ教授の指導を受けたことはないが、敬意をこめて教授と呼んでいる。

次話:3.8 3つの条件
前話:3.6 疑念

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