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この人はなぜ見ず知らずの私の目を見て優しく話すのだろうと考えてみた

これはお客様と話していたときのことで、真っ直ぐにこちらを見て懸命に私の話を聴き、優しく問いかけて、こちらが結論を導き出すまでの道程であまりに私に興味を持っておられる(ように感じられた)ので、それをふと不思議に思った
しかし直ぐにその疑問は解消された

「互いに受け容れあっている」
からだ。そう思った

ちなみに私は職業柄(人間柄?)受けつけない人はほぼ居ない
昔は嫌なこともあったけれど、まあ大人になればこんなもんだ

更にいまは大変恵まれた環境で仕事をさせてもらっているせいか、心を病んだり萎えたりするようなことはほぼ無い

豊かな生活に身を置く方がお出でになる場所なので、そのせいでもあるのだと思う

故にお客様は大変に穏やかでしかも魅力的な方ばかりだ
当然、御自身のことを自ら受け容れて、受け容れられている環境が整っているはずである

真逆の職場にも居たことがあるのだから、残念ながらそこに差があることも分かっているつもりだ


自分は受け容れられている、という前提のもとで起こるアクションと、受け容れられていない頭で考えて捻り出したアクションとの差は雲泥で、

「私はこの人に受け容れられており、受けとめてくれるはずである」と信じている時の人の目というのは、純粋で優しく屈託が無い、愛に溢れたものである
そこに疑いはない
だから行動をすることチャレンジをすることに躊躇がないし、失敗も恐れず勇気を持ち、失敗を糧にできるし自然と応援する人も寄ってくる

「私はこの人に受け容れられていないのだから、頼ることもないし話すこともない」などという心情というものは、人を簡単に孤独にしてしまう

幼少期の教育や環境、大人になってからでも苦い経験があれば容易に人は心を閉ざし、社会と交わる事を怖がったり嫌ってしまうものなのだと思う

それでも、受け容れてくれる人がひとりでも居たら心は健やかでいられる

もし、ひとりも居なかったとしたら?

自分の周りに、理解者とは言わぬまでも
ありのままの自分を受け容れてくれる人が居なかったとしたら?

そうしたならば、あなたがあなたを受け容れてあげればいい

そうしたら0→1人になる

そしてあなたが、今度は、誰かを赦し誰かを受け容れてあげることができたのなら、

あなたがその誰かに受け容れられ、誰かはほかの誰かになり、受け容れられる連鎖になって、

きっと友達になったり恋人になったり、家族になるのだと思う

思いつきで書いているけれど
きっと間違ってないんじゃないかな?
そんな世の常になればいいなあと、そんなふうに思う

だから話を聴くときには、必ず相手を受け容れている心持ちで
傾聴をし、受けとめる

賛同するならばすればいいし、
違う意見があれば違う考えがあってこれは面白いねと楽しめばいいし

この世に存在するモノコトを楽しみ尽くすつもりで臨めばなんだって上手くいくんだろうなと
そんなふうにも思った

そして、受け容れられ慣れている人は、総じて皆目を見て受け容れている様子で聴くし話す
素直だし、そして何より人として美しい

そんな人になれるように人間をがんばろうと思った土曜日

明日もがんばります

それでは、おやすみなさい〜

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