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ユース出雲かわらばん ~池野優真さんインタビュー~

コミュニティナースカンパニーが運営する新しい拠点が出雲に出来ました。
出雲でどんな人がどんな思いで何を起こし、どんな未来へ向かっていくのか。
「ユース出雲かわらばん」では、ユース出雲の今をお届けします。
第2回は、埼玉から単身島根に移住し、ユース出雲を運営しているN高生池野優真さんにインタビューしました。

いけちゃんはどんな子どもだったの?

幼稚園のときから先生によく怒られてたんです。みんなの前に立たされて。今思うと「先生」とはかみ合わない人だったんですよね。おれ。
中学でも、先生が言っている方向と別の方向を目指そうとしたから、関わり方が分からなかったんだと思うんですよね。

一番古い記憶は、伊豆への家族旅行です。おじいちゃんおばあちゃんも含めて家族8人で行って。伊豆へは「おどりこ」で行きました。プラレールばかりで遊んでいた子どもだったので、とにかくテンションが上がって。8人だったのに6人席に乗ったんです。とにかくぎゅうぎゅうだったけれど楽しかったことは覚えています。

小中は公立でした。勉強は嫌いだったんですけど、毎日学校へ行ってました。小5までは皆勤だったんです。工作とか家庭科とか、主要教科以外の手を動かすことが好きな子どもでした。けど、主要教科も授業を受けてれば大体内容は分かりましたね。テストの点数が悪いとかではなかったです。
身体を動かすことも好きでした。休み時間はサッカーやバスケをやっていました。

習い事で、水泳を小3からはじめて。小5には、そのスクールで、背泳ぎで1番になったんです。目標達成したので、やめました。その後はボルタリングをはじめて、それも准一級を取ったのでやめました。自分で目標を立てて達成することが好きでしたね。

ところがです。中学校に入ってからが大変でした。
友達の頭が良すぎたんです。クラスの中で高得点を取る子がたくさんいる学校だったんです。普通に勉強しているだけじゃだめになったんです。まあまあな点数は取っていたのですが、200人中、下から10人のうちにはいっていました。勉強は好きじゃなかったので、もう全く勉強しなくなりましたね。

部活はバレー部に入って、県大会にも出場したのですが、2年のときに顧問が代わってやめました。その先生は、「チームの大切にしたいこと」を踏みにじる先生だったんです。ぼくらは「超一位になりたいわけじゃないけど、楽しく強くなろう!」って感じでやってたんです。新しい先生になってから、先生がイライラしてたら反省文をかかされたり、走らされたりして。で、都合の悪いことは「伝統だから」で終わらせるんです。もうぐちゃぐちゃにされましたね。それで、やめました。でもその時担任の先生に「部活やめたやつ、学校で1人しかいないぞ。」って励まされたんです。それがすごく嬉しかったですね。それから将来自分の人生を振り返るのが楽しみになりましたね。

中2の途中から、コロナ禍で、学校がなくなったんです。授業も家で録画した動画を家で見るだけになってしまって。自習が苦手で、もう勉強がなんにもできなくなってしまって。自暴自棄になっちゃったんです。「受験したくない。もう勉強はやめて、名前書いたら入れる高校に進学しよう」って思ったんですよね。それで、気づいたら検索してました。そしたら「N高」が出てきたんです。ここにしようって決めましたね。
学校からは猛反対を受けました。職員室にも呼び出されましたね。けど、担任の先生だけは分かってくれて、すごく応援してくれました。
サラリーマンから先生目指して、試験に6回落ちてまでなった先生で。「一人ひとりにあった学びの形がある」と信じてくれた先生でした。スポーツ、勉強、音楽…一人ひとりに合わせて進路指導をしてくれていました。

N高に入ってからは衝撃の連続でしたね。まず、プリントが紙じゃないんです。PDF、最高です。登校時間は遅いから満員電車にも巻き込まれない。授業は簡単でビデオで受ける。顔を合わせてやる課題解決の授業とかだけ、学校でやっていましたね。

そう、最初の課題解決の授業で1番を取ったんです。JAXAとの授業で「宇宙空間での楽しみ方を考える」という題があったんです。ネットで「宇宙サーフィン」というのをみつけて、「水があったらいいんじゃないか!」と思っておしゃれに発表しました。3Dが得意な友達にモデルつくってもらったりして。100人くらいの前で発表したのはいい経験でしたね。
アーティストのMVをつくったりもしました。N高って有料の動画編集のソフトを無料で使えるんです。だから、動画編集をやってみよーっと思ってやってたんです。毎日が楽しかったですね。

コミュニティナースと出会ったのは、いつ?

N高2年の11月でした。GOD HANDSプロジェクトの募集で、「コミュニティナース」という言葉を見つけたんです。「なんだこの分からない言葉は!気になる!」と興味を惹かれて。ちょうど神在月で出雲大社に神様が集まるのも見てみたいなと思って、島根へ職業体験に行きました。高2のときはバイトでお金を貯めて職業体験に行きまくっていたので、自然に身体が動きましたね。

島根では、コミュニティナースの方と一緒に行動していました。コミュニティナースの方が「ばんこの縁側」というイベントのチラシをガソリンスタンドに持って行って、「これあるんできてください〜」「お〜いいね〜!ありがとう!」と宣伝をしたのですが、そのやさしい、まちのひととの関わり方にすごく衝撃を受けたんです。高齢の方がみんなで集まっていきいきしてたのも驚きでした。高齢の方のコミュニティを知らなかったので、すごく楽しそうに見えたんです。
「自分もこんなふうに関われるようになりたい!」ってすごく思いました。この光景を高校で知って、「この後生きる人生が変わった」と感じた瞬間でした。

高校に戻ってからは友達にコミュニティナースを布教しまくりました。けれど、実際にみてみないと伝わらないことも多いんです。「これなんだ!」とわかるものをつくりたいなと思いました。
そんな時、コミュニティナースの方から声がかかってきたんです。「ユースの活動するからいけちゃん、やってみようよ!」「島根行きます!」と即答しましたね。感激を受けたコミュニティナースを同年代に伝えるのはめっちゃ面白そうだなと思ったんで。「高校のうちにインターンしてみよう」というのは決めていたんですけど、都会で家から通いながらとかではなくて、まさか田舎で住み込みでやるとは(笑)昔の自分が知ったら驚くと思いますね。

ユース出雲を軸に広げていくユースにコミュニティナースを広げる活動の可能性ってなんだと思う?

ぼく、コミュニティナースという言葉が分からないくらいみんながあたりまえにコミュニティナースするようになったとき、すっごい景色が見えると思うんです。ぼくがコミュニティナースと出会ったとき、自分の幅がぶっとぶような衝撃を受けたんです。そんな体験を同年代の人があたりまえの日常のなかでしだしたら、おもしろいと思うし、すっごい若い人たちの可能性が広がると思うんです。
昔の人は「昔はよかった。人と人とが繋がっていた」というけれど、コミュニティナースが広がれば、「今もよい」になると思うし、若い人が感じているよくない部分が抜けて、昔のいいところだけが残ると思います。

最後にこれからユースに関わる人たちにひと言お願いします!

これから、ユースの活動に関わる人たちは、失敗するかもしれない挑戦もするとおもいます。だけど、そのがんばりをみてくれている人はいるし、その挑戦でしか見えない社会のおもしろいことがあると思います。ぼくは失敗した時、「のびしろしかない」と思っていて、だから「進んでいこう」って伝えたいです!


若者応援サポーター募集!

プロジェクトの詳細は、以下のリンクからご覧ください!


インタビュアー ひびき
愛媛県出身。能登地方で夏は塩づくり、冬は酒造りの季節労働でお金を稼ぎながら、田舎暮らしで、生きる知恵を身に着けている20歳。塩づくりがはじまるまで、コミュニティナースカンパニーのお手伝いをしている。

ゴッドハンズプロジェクト

ユース出雲の足がかりとなった2022年のクラウドファンディング

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