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「超初心者向けサッカー解説」を書いて学んだこと(#125)

東京五輪のU24サッカー日本代表戦を観戦していて、ふとした思いつきから、
「超初心者向けサッカー解説」
のnoteを複数書いた。
(良ければ↑のマガジンから読んでください)

改めて、言葉で物事を説明すること、言葉によるコミュニケーションの難しさを実感した。

読解力と表現力

何かを伝えようと頭にある言葉を文字に起こす。
伝えたいことを伝えるために、どのように書いたらいいかを考えて文字を連ねる。
場合によっては、言葉に限らず絵や写真を交えながら文章を書く。
これを表現力という。

例えば、私たちの母語は日本語なので、日本語の文章はだいたい読めるだろう。

だが、それを読む(見る)側が理解できるかどうかは表現力だけで決まらない。

「読めること」

「読んで、意味を理解すること」
は必ずしも一致しない。

「本を読んだけど、内容がよく理解できなかった」
という経験をしたことある人はいないだろうか。
私はよく経験する。

このように、文字を読んで(絵を見て)それを理解できるかは、読み手側に一任される。
これを読解力という。

同じ日本語の文章を、母語を日本語とする人間が読んでも、同じ理解に至らない(≒同じように受け取れない)ことが多々ある。

これは「コンテクスト(≒文脈、背景)」を共有できているかに依存する。

この「コンテクストの共有」ができていないとコミュニケーションは困難だ。

言葉によるコミュニケーションには、コンテクストが重要だ

「超初心者向けサッカー解説」を書いてみて思ったことがある。
それは
「どこまでのコンテクストが共有できているのだろうか」
ということだ。

例えば、ファウルについて。
サッカーに日々接している者からすると、起きたプレーがファウルになるかどうかは、なんとなくでも理解しているだろう。
だがそれを文字に起こそうとした時に、どう伝えるのかとても悩んだ。

「相手を引っ張ったらファウル」であるのは間違いないのだが、引っ張ってもファウルにならないことはザラだ。
「相手を押したらファウル」であるのは間違いないのだが、押してもファウルにならないことはザラだ。

要するに、
相手を引っ張る(または押す)という行為があっても強度や悪質性、その状況によってファウルとなるか否かは変わる
ということだ。

ここをどう言語化して伝えるのか悩んだ。
その結果、以下のように書いた。

なお、ファウルについては、
主審の裁量によってファウルか否か
が決まります。

ここをどうしてもうまく伝えきれず、曖昧な文章で逃げたのは否めない。

だが、コンテクストを文章にすると話が大きくなってしまい用語の説明からどんどん離れてしまうと思い、省いてしまった。

と同時に、このコンテクストをコンパクトに説明する表現力を自分が持ち合わせていないことにも気付いた。

ふだんの生活にも同じことが言える

私も人のことを言えるほど説明が上手い人間ではないが、noteを書くようになって、より文章の書き方や話す事による説明の仕方にとても敏感になった。

仕事をしている時など、説明が上手くない人に「勿体ないなぁ」と思うことが増えた。

書き手(話者)は
「これくらいわかってるだろう」
という前提に立っているが、読み手(聞き手)はその前提を知らないことが多々ある。
にも関わらず、一方的に説明し、説明が終わって満足している人が多いこと。

ただ、仕事において常にイチから説明するのは
「バカにしてるのか!」
と思われる可能性もあるから難しい。

コンテクストをどこまで共有できている、共有する必要があるのか

これこそがコミュニケーションにおける最も重要な要素だということに、改めて気付かされた。

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