見出し画像

開発者が考える、もはや五輪に限らないカルチャーと経済の再興アイデア。

"note"と聞いて思い浮かべるのは、桂正和の漫画『ウイングマン』に登場するドリムノートだ。書き記したことを現実にすることができる。漫画の主人公(広野健太)は、自作のヒーロー"ウイングマン"を書き込んで、地球人の奴隷化を目論む独裁者(リメル)と戦う。ドリムノートに書き込むように、夢のあるカルチャーと経済の再興アイデアを書き残しておく。

0)イベント名:"オリンピック"とは?
子供の頃みたオリンピックの記憶。代表格は1984年ロス五輪。開会式ではファンファーレとともにロケットマンが宙を舞い、アメリカを代表するミュージシャンたち(ジョン・ウィリアムス、クインシー・ジョーンズ、TOTO、ハービー・ハンコック、フィリップ・グラス)が開会式や競技などのオリジナルテーマ曲を作るなどフル稼働。これらの楽曲を収めた『L.A.オリンピック公式アルバム』なるものが世界発売された。赤字前提だったロス五輪に黒字化をもたらしたのは、こうした五輪由来の文化的な商品を世界中に届けたからに他ならない。国税を使わない代わりに、文化に対する政治的な介入を阻止することができた。元ディズニーのデザイナー(C・ロバート・ムーア)が作ったメインキャラクターのイーグルサムは大人気。グッズが飛ぶように売れた。結果的に400億円の黒字で終幕。コマーシャル、つまり商業主義に傾倒したオリンピックの始まりだと揶揄されることもあるが、結果的に利益の全額を寄付するなど調べれば調べるほどアメリカらしくて良い。

1964年東京五輪の記憶は僕にはない。だけど、市川崑監督作品の映画『東京オリンピック』が大きな黒字を出したことは知っている。3億5360万円の製作費に対して国内だけで12億2321万円の収入。カンヌ国際映画祭で国際批評家賞、英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞するなど、海外でもしっかり評価された。日本映画が黒澤明だけじゃないことを、名実ともに証明した。今になってふたたび観直してみると、映画の冒頭には「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである」と日本語で堂々と明言してあった。技術面では、セイコーが世界ではじめてクオーツ時計の技術で競技を計測。一度もトラブルを起こさなかったことで、その性能が世界に轟いた。100分の1秒までタイムを記録できるストップウォッチも開発されるなど、セイコーはその技術力で世紀のイベントを陰で支えた。

1)なぜ芸術と芸能とスポーツの祭典を同時に開幕しないのか?
上記の通り、僕にとってオリンピックとは必ずしもスポーツだけの祭典ではなかった。むしろ文化的な要素が熱狂とともに享受できる機会だと認識していた。念のため、近代オリンピックが再開されたタイミングで制定されたオリンピック憲章なるものも確認したが、そこには「スポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求する」と書いてあった。今回の東京オリンピックはやっぱりオカしい。カルチャーか、スポーツか。無駄に選択を迫られる踏み絵前提の大会になっている。明らかなミスリード。なぜ音楽が好きな人が、選手のため国(というか一部の人間の利益)のために我慢しなくてはいけないのか。とくに音楽や芸能を心の支えにしている飲食業界、旅行産業で働く人たちはしんどいのではないか。精神的な救いがなければ夢を見ることはできない。劇場や寄席、美術館や博物館だって、おっかなびっくり開館している状況。ただでさえ世界市場が敗色に塗れている。国民に蔓延する残念な気持ちと、それを晴らすようなお祭りのニーズ。ギャップが酷い。僕の怒りは、オリンピックの無観客開催とか、選手村に住む村民たちの横暴だとか。止むなく迎えるいち現象に対するものではない。世界中の注目、矢印が集まる機会を無策のまま迎えている現況に腹を立てている。

開催が迫る開会式。まずここでスポーツだけが優先的に開幕するのがオカしい。中止になった音楽フェス、劇公演、寄席、芸術祭、展示会、国内全ての要素がまんべんなく、せめて開会式の場に於いてだけでも開幕して欲しい。それを観ることで国民の不満は幾ばくか解消されるし、中止になったイベントに出演予定だったアーティストだってきっと事情を話せば協力してくれる。世界的な矢印が集まっているのだから未来のセールスにもつながる。文化・芸術とまともに接続していない船頭ばかりだから、まとまるものもまとまらない。この人になら委ねられるという芸術監督に中身は任せて、政治家は口を閉じるべきだった。そこに世界経済市場の皮膚感覚があるプロデューサー、そしてテクニカルをまとめられる技術責任者を配置するべきだったと僕は思う。

2)文化的な財産を築いて世界へアッピールする
映画『東京オリンピック』がそうであったように、最先端の機材で開会式そして競技の内容を記録する。そこには、8K16Kなど平面技術だけではなく、AR(VRやXR)などの立体技術、そしてAIなど。とにかく詰め込める最新技術は総動員する。それを文化的な財産として、オリンピックが終わったあとに世界へデジタル商品として提供する。たとえば100mの世界新記録を出した陸上選手の身体を3Dモデルとして、動きをモーションデータとして精密に記録する。そのデータの利用価値は無限にある。各国の競技場で、激戦を等身大スケールで再生してもいいし、子供たちが世界中の運動場で選手たちとARで競ってもいい。装着型サイボーグにデータをダウンロードして、未来の選手の育成に役立てるのもよい。一流選手のデータを科学的な解析につかって、ロボティクスそのものに貢献することもあるだろう。文化と芸術が総動員となった開会式をまるごと記録できたならば、それはもう日本という国単位のニューアルバムを準備したのと同じこと。国内のあらゆるカルチャーが海外進出できるチャンスを手に入れることになる。根拠となる実数をあげると2008年北京大会で10億人、2012年ロンドン大会と2016年リオ大会はそれぞれ3億4200万人相当が開会式を視聴している。リオ大会の全競技を通じた総視聴者数は36億人にのぼり、これは世界の総人口の約半数にあたる数字である。

うっかり開発者なので、技術分野の情報過多になってしまった。しかし、僕が何者であっても「スポーツだけ開幕するのは勿体ない」という意見は変わらない。スポーツだけではなく、芸術も芸能も技術も科学も空想も、もれなく開幕すべきだった。

3)スポンサーが大切ならば、スポンサーを救うアイデアを。
国内の飲食そして旅行産業が厳しいのは周知の事実。オフィシャルスポンサーの中にも苦境に立たされている業態の企業も並んでいる。たとえば日本開催のオリンピックを、日本食を食べながら楽しみたいという人が世界にはたくさん存在するはずだ。国内の飲食店をあげて日本食を生産し、缶詰や冷凍して世界中へ届けるというアイデアはどうか。同時にオンラインカタログ化もする。どの国でどんな日本食が人気なのか、ランキングにしてもよい。もれなくマーケティング材料になるし、いつかコロナが明けたら海外から「あの味」を求めて来てもらうように旅行産業が段取りしておく。食品メーカーは、「あの味」をインスタントに再現できる商品を世界へ届ければいい。ここまで1年間の延期、準備期間がなかったとは言わせない。技術系の名だたる企業も、スポンサーになっている。彼らがもつ技術を十分に生かして、世界最高峰の記録をニューメディアに残す。AI分析も加味して、文化財として世界へ提供すればいい。スポンサーの技術力もしっかりアッピールできる。

4)ドリムノートを作ろう ≒ 未来のイメージは自分たちで描こう
東京の新型コロナウイルス感染者数は増えるばかり。世界中の人たちが集まれば、変異も複雑になる。オリンピックに反対する気持ちもわかる。開会式に関わる人たちの過去を正そうとする気持ちもわかる。でも、特定の人間を引き摺り下ろすだけの力学では、僕らの経済圏をまるごと救ってくれるような新しいビジョンは生まれない。コロナは怖いけど、経済が回らないのも怖い。コロナを牽制しながら自分たちの経済圏も守ってゆかなければならない。かといって広告屋さんが誘致したイベントに全乗っかりするのも限界がある。これも十分に留意しなければならない。

今回ほど国民にとって疎外感のあるオリンピックは無かった。スポンサーがスポンサーであることをひた隠しにしなければならない現状は悲惨きわまりない。ここに記した僕のアイデアは、完璧ではない。新型コロナウイルス感染症対策、逼迫する医療など、考慮しなくてはならない問題は膨大にある。現代の人類の持っている夢を描き切るにはまだ書き込みが足りない。さまざまな立場に置かれているであろう読者のみなさまに、ぜひ自分都合の夢の続きを各自の「ノート」に書き込んでもらいたい。医者には医者の、音楽家には音楽家の、落語家には落語家の、建築家には建築家の、農家には農家の、照れ屋には照れ屋の、肉屋には肉屋の、皮肉屋には皮肉屋の、弁護士には弁護士の、消防士には消防士の、力士には力士の、武士には武士の、編集者には編集者の、学者には学者の、料理人には料理人の、タクシー運転手にはタクシー運転手の、狙撃手には狙撃手の、店員には店員の、雇われ店長には雇われ店長の、広告代理店長には広告代理店長の、銀行員には銀行員の、頭取には頭取の、政治家には政治家の、経団連会長には経団連会長の、それぞれの言い分や目論見があるはずだ。リアルで夢みたいな絵空事を各自持ち寄って、白か黒かだけを問われる世界とは決別したい。

これからも我慢しなくてはならない場面は続くだろう。ただ、いま何を我慢していて、その先にどんな未来が待っているのか。明確にイメージできるものを、構造からやり直したい気持ちではある。何のイメージも、夢もない名ばかりのお祭りに巻き込まれるのは、もうこれで最後にしたい。この考えに同意していただける人たちへ、このドリムノートを回します。一緒に続きを考えて、もはや五輪に限らない。人類の夢がしっかり収容できる新しい祭典を作り直しましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?