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やじろべえ日記 No.3 「適当」

「お,やっと来たね。」

そのシンガーは公園についた私を笑顔で出迎えた。誰かの敷地というわけではないのだから出迎えたという表現は確かにおかしいだろうが,彼の表情がそんな感じだったのだから仕方がない。

「いわれた通りの場所に来ただけですが。」

わたしはそっけなく答えた。

わたしはしがないキーボード弾きである。とある音楽サークルで野良でのセッションを繰り返していたが,ある日このシンガーに誘われてセッションをすることになった。こちらはどうせ暇人なのでセッションをするのは全く構わないがこの人は私の何がよくてセッションを続ける気になったのかが,実のところよくわかっていない。

そして昨日,急に向こうから場所の変更を指示されたのでこちらへきた…というわけである。向こうの表情やしぐさから察するに,ここは彼のホームなのだろう。

いつも通り鍵盤の準備をするが,特にやることは変わらない。ただ,今日はなんだかいつもより指が軽い気がする。天気がいいからだろうか。

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「じゃあ,そろそろ始めようか。」

「分かりました。やりましょう。」

そうこうしているうちにセッションの時間である。今日は指も軽いので焦らずやっていこう。ところが。

シンガーの方がなかなか歌いださない。何があったのか。

シンガーの方を見てみるとマイクの調子を見ていた。マイクの調子が悪いようだ。

そうであればやることは一つだけだ。

私は自分のレパートリーをそれはもう適当に弾き散らした。レパートリーを弾いている合間にマイクを直してくれ。そう願いながら。

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レパートリーを弾いているうちに,マイクの調子が戻ったシンガーさんが乱入してきた。それはもう楽しかった。これだけ派手に,不規則に弾き散らしているにもかかわらずシンガーさんは全くぶれずに対応しきった。

終了後,こちらから声をかけた。

「お疲れ様でした。マイクはもう大丈夫ですか?」
「うん。それにしてもすごかったね。さっきのアドリブ。」
「アドリブというか…知っているレパートリーをとりあえず弾きまくった感じです。」
「だとしたらあの場であれだけのレパートリー思いつくなんて場慣れしすぎでしょ。」
「いやいや場慣れって…ここ初めてですよ私。」

そう,マイクトラブルがあったのですっかり忘れていたが実は私はこの公園でセッションするのは初である。

「確かにそうだった。だとしたらすごいね。度胸ありすぎでしょ。」
「すごいのはそちらもでしょう。あれだけ適当に弾いてた私によく合わせられましたね。」
「適当といいつつ,選曲が全部僕の歌いやすいキーのコードだったからね。そういう曲を選んでくれたのかと思っていた。」

全くそういうことは意識せずに曲を弾いていたのでそういうことを言われていたのはびっくりだった。

「そういうのは…全く意識してなかったです。」
「そうかあ。じゃあ君,もしかして持っているのかもね。」

持ってるとは何なのか。よくわからなかったが,まあ気分を害している感じはなかったようだ。

「明日もここでやりますか?」
「そうしよう。今日のリベンジがしたい。」

リベンジかあ。気合や熱のこもった感じは苦手である。あまり力まずに淡々とやろう。

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