「音楽」との接し方 ~Jackの近況~
さて,今日は最近のことを書こう。
以前,楽器屋でもう一度楽器をやってみたくなった自分の話をしていた。
いい加減覚えた!というくらい何回も話すが,筆者は音楽をしていた時期がある。そしてこの記事では音楽をやめた後の自分について少しだけだが,このように書いている。
一度より良い音楽を求めて必死になっている自分から離れたかった。
そこから自分は音楽をただの娯楽として味わった。(記事「久々の楽器屋」より)
さて,そんな感じで音楽については何もしていない状況だった筆者。音楽をずっと外にある娯楽として楽しんでいたのだ。
だがここ最近音楽とのかかわり方において,変化が生じた。
歌アプリとの出会い
twitterのフォロワーさんから紹介してもらったアプリで最近歌うようになったのだ。ちなみに歌うと筆者はこんな感じになる。
歌のうまい下手については…まあ言及するまでもないだろう。ただ下手糞なりにボイトレ動画を見たり,何度も原曲を聴いて音をとったりするようになった。
一人でできる音楽というものは限度がある。このアプリは伴奏を作っている方もいるのだが,皆様すごく個性にあふれる素晴らしい演奏だ。そして伴奏の方の音楽を聴いていると原曲とはもちろん違うのだが「ここはこう主張したいのかな?」「これはこう表現したいのかな?」というのが少しだが分かるようになってくる。
そしてそれにこたえるための表現を模索しようとする自分がいるのだ。一緒に楽しくやりたいという気持ちが出てくるのだろう。
音程や声質も大事。ものすごく。ただそれ以上にどうしたら伝わるかを無意識に考えながら歌おうとしている自分がここ半月の間で形成された。
久々の鍵盤
さて歌ばっかり歌っていたのかというと実はそうでもない。
近所に練習場を発見した筆者はかなり久しぶりにピアノというものに触れた。もちろん久々なので大した曲は弾けない。手持ちの比較的簡単な曲の楽譜をもって,基礎練習からやっていた。Tweetにもある通り演奏はもうボロボロだった。だが,自分の中の音が増える感覚があった。
その時,自分でない楽器や人から出てくる音が恋しかったのだと気づいたのだ。アプリもそう,ピアノの音もそう。音楽って誰かから音を受け取って成立するものでもあることを思い出したのだ。
歌うことでほかの人が奏でる伴奏の主張が気になるようになり,弾くことで自分が出す自分でない音に感極まるようになる。
音楽っていいと思った瞬間なのだった。
音楽っていい
この半月程度で離れていた音楽が一気に近くなったように感じた。現代はアプリや共同の練習場もあり音楽をやっていくためのハードルが低くなった気がする。
このような場を提供してくれる人々に感謝しながら音楽に触れていきたい。それも立派な芸術への貢献になるのかもしれない。
そうなればいいなあ…なんて思ってしまう筆者なのだった。
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あとがき
どうしてここ最近の変化についての話を書く気になったかといえば,下のnoteを読み,記事内のこの言葉に触発されたからである。
「何もできなかったけど、何もしないことをしていた。
何も感じられなかったけど、必死に生きた時間だった。」
おそらくだけど,これまでの時間は「何もしない」を頑張っていた時期なのだと,腑に落ちたのだ。
他者のnoteや音楽を味わうっていいものである。
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