見出し画像

やじろべえ日記 No34 「セッション1日目」

その日,私は講義が早く終わったので課題を済ませてから例のスタジオへ向かった。

わたしは野良のキーボード弾きである。その野良ネコみたいな名乗り向上なんとかならないのかと聞かれたことがあったが,自分としては気に入っているので変えるつもりはない。一昨日,あるドラマーの方と2日連続でセッションをしようという話になり今日はその初日である。

そしてそのドラマーがさっそく登場した。

「市村さーん,ごめん待った?」

初デートの女子高生のようなセリフで現れたのは今回のセッション相手,戸村さんだった。

*****************

「今日散歩してたら水たまりにはまりそうになってさあ,びっくりしたよ。それで立ち食いのたい焼き食べてたらカラスにとられちゃって…」

楽器のある部屋へ向かう際中,戸村さんのノンストップ世間話が始まった。戸村さんのこの人懐っこさというか分け隔てのなさというか。なんだろう,フットワークの軽い感じは何なんだろうと思うことがある。不快ではないのだがただびっくりする。伏見さんもたまに勢いすごい時があるが,普段からびっくりするようなテンションではない。戸村さんは普段からこれが通常運転なのか。すごい。

「たい焼きをとるカラスって…よほどおなか減ってたんですね。」
「ほんとだよ。とられたところたい焼き屋の人に見られてさ,哀れに思ったたい焼き屋さんが一つサービスしてくれたんだ。」
「それはラッキーでしたね。」

そうこうしている間にたい焼き屋…おっと違った,スタジオの部屋に到着した。

****************

戸村さんがセッティングしている間,私も楽器の準備をする。講義終了後はずっと課題にいそしんでいたこともあり,準備は全くしていなかった。

「市村さん!準備はいい?」
「はい。戸村さんは?」
「OKだよ!じゃあ始めようか!」

その掛け声で曲が始まった。最初は同時に開始だったのだが,徐々に戸村さんが息をひそめる。ただ盛り下がるところではないので私が引っ張ってくれということだろう。
道を譲られたらこの場合譲り合いは望ましくない。自分の最高潮のアルペジオをたたき出した後,和音の連続。そのあとは主旋律に戻る。丁度そこでドラムと合流するのであとは乗っかるだけ。
こうして改めて聴くと,戸村さんはほかの楽器を注意深く聴いているのがわかる。もちろんセッションをする上でお互いの演奏をしっかり聴くのは基本なのだが,私は聴いたうえで出した答えがずれまくっている場合が多い。だからこそ浅井さんと出会う前は一人で気ままに弾き散らかしていたのだが。

しかし戸村さんはそうじゃない。出す答えだす答え,それぞれがかなり正確で的を射ている。そうこうしているうちにドラムソロへ移った。
ドラムソロも自分の演奏をしっかり出している。合わせるとしたら上の音域で単発の音だろう。邪魔はしない。しかし効果的に。ずれは許されない。この人のドラムソロは緊張感という糸で背中を引っ張る。気さくな性格とは裏腹に演奏にはある種の厳格さがある。笑顔の下にしたたかな理論が埋め尽くされている感じだ。

演奏はノンストップで最後までできた。戸村さん,アンサンブルのツボを押さえるのがうますぎる。こんな人が私とセッションしてて楽しいのか…
「あのう,戸村さん。」
一昨日の沈黙維持大会を破ったのは戸村さんだったが今日は私だ。
「どこから手を付けましょうか…正直戸村さんの演奏,非の打ち所がないんですけど…」
「市村さん,この曲,どれくらい練習した?」
「えーと…正直に言うとほとんどできてないですね…昨日別の人と新曲の練習してたらそっちの練習がメインになったので…」
「そうなんだ…」
あちゃー,これは怒らせたか。そりゃそうだよなあ,先約があるのに全然練習できてませんなんて言われたらなあ。と思ってたその時。
「すごいね!ほとんど練習してないのに,一昨日と全然違う!」
「…はい?」

*******************

「だって昨日と今日の午前中,全然触ってなかったってことでしょう!なのに腕は落ちてなくてかつ一昨日と全然違う演奏!すごいな!建成の言ってたことほんとだったんだ!」
「…あ,あー。」
この間のイベント本番の成功もあってすっかり忘れていたが私の演奏は『日ごとに変わる』という特徴がある。もともと他人とのセッションが全くできなかった理由はこれである。会う人会う人に「なんで前と同じようにできなの?」と言われ続けた挙句セッションを解消されるということを繰り返してたのだ。浅井さんと出会う前は。しかもこの特徴の厄介なところは…
「あのう,私変えたつもり一切なくて…なんか変なところありましたか?」
そう。当の本人は『何も変えたつもりが全くない』ということである。

「変なところはなかったよ。むしろ僕の言っていること分かってくれるんだな!ってうれしくなるところ多かった。特にドラムソロのとこ。あんまり合わせてもらえなかったけど,今回高音で合わせてくれて。だいたいは邪魔しないようにーって放置されることが多かったんだけど今回は一緒にやってくれてうれしかった!いいなあ建成,こんなセッションしてたのか!」

心なしか戸村さんテンションが高い気がする。まあとりあえず演奏に不満がなさそうなのは何よりだ。
「ひとまず,演奏に不備がなかったのであれば何よりです。ただ,ドラムソロ以外はもう少し合わせられると思います。もうちょっと合わせてみませんか?」
「やろうやろう!ああこれマジで建成に聴かせたい!どんな反応するかなあ…」

いとまずセッション一日目は無事に終了しそうである。

よろしければスキしていただけるととてもうれしいです。ほかの記事もよろしくお願いします。