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やじろべえ日記 No32 「逢着」

いつもの帰り道と反対方向へ歩くとそこには,少し薄暗い路地がある。角を曲がって3軒目のところに赤い扉が特徴的なビルがあった。その3階にあるスタジオ—「Elton Studio」。ここが今日の集合場所だ。

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わたしは野良のキーボード弾きをしている大学生だ。普段は学校が終わった後帰り道の途中にある公園で適当に弾き散らかしている,というのが約1か月前の光景だった。

その時にたまたま出会ったシンガー,浅井建成(あさいたつなり)さんの誘いでセッションをし,伏見さんという独特な奏者と出会い,最終的には本番のステージで3人でセッションすることになったという数奇な1か月を歩んできた。

今日はなぜスタジオにいるかというと,ある方と待ち合わせすることになったからだ。スタジオで待ち合わせている理由は先方の都合だ。そうこうしているうちに後ろからなかなかでっかい声が聴こえてきた。

「市村さん!おまたせー!」

後ろから大声で歩いてきたのが今日の待ち合わせ相手,戸村さんである。ちなみに市村というのは私の名前である。

「まだ時間前ですし,問題ないです。」
「そうはいってもキーボードも重かったでしょう。ごめんね待たせて。」
「あ,いやほんとさっき来たばっかりなのでお気になさらず。」
「そうなんだ!まあここで立ち話もなんだし早く入ろ!」

いつもキーボードを持っているのだから重くてへばることはないのだが戸村さん曰く「細くて今にも折れそうな体型なのにそんな重そうなの持ってるのすごいな」だそうである。断っておくが私のBMIはいたって基準値以内だ。標準体型なのだが…ってこんな事わざわざ書く必要もないか。それに戸村さんがキーボードを重そうというのも理解できない。なぜなら…

「あ,じゃあ僕はドラムのセッティングやっちゃうから,そっちでウォームアップしててー」

戸村さんはドラマーである。数ある楽器の中でも屈指の要体力楽器だ。

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スタジオ指定だったのは皆様お判りいただけだろう。ドラムは持ち運びできる楽器ではないのでスタジオを借りてやる必要があったのである。

昨日例のイベントの打ち上げを行っていたが,その際一緒に演奏したシンガー,浅井さんの友達ということで声をかけてもらったのが戸村さんである。そしていきなりセッションしようといわれたので私は言葉を失い,そのあとは向こうの主導で日程やらなんやらが決まった。

素人偏見だがドラムやっている人って本当にすごいと思う。ただすごいと思っている理由が「両手足全く別の動きを難なくやってしまうのがすごい。」とかなり幼稚なのだ。うん,鼻で笑われてもおかしくない見解だろう。実際昨日戸村さんに言ったら「そっちだって両手別々の動きしてるじゃん。」と言われた。しかしキーボードとドラムの「違う動き」を一緒くたにされるのは困る。

ぼやいているうちに戸村さんのセッティングができたようだ。

「こちらも終わりました。とはいえ何やりましょう?昨日の今日なので持ちネタが何もないのですが…」
「持ちネタかあ…じゃあさ,建成とやってたあいつの持ちネタやってみようよ!歌えないけど。」
「…そうしましょう。」

そこから先は正直あっという間だった。戸村さんも浅井さんとセッションしたことがあるんだろうか。何回か聞いたことがあるにしてもしょっぱな,しかもほぼ初対面の人間相手にここまで遠慮なく自分の演奏を出せるのは純粋にすごい。ぶっちゃけわたしも委縮しないよう意識するので精いっぱいだった。

それでもこちらだって負けていられない。戸村さんはさすが熟練のドラマーなだけあってメロディーの出番とドラムの出番のさじ加減をよくわかっていらっしゃるようだ。エスコートがうまいのだろうか。柄にもなくきざなことを言ってしまったが,彼の配慮もありこちらの出番になったらかなり無造作に弾き散らかしてしまった。

演奏が終わった後はしばらく黙っていた。しばらくは沈黙維持合戦になっていたが終わらせたのは戸村さんだ。

「やっぱり君,すごいね。初対面相手にあれだけできるもんなんだ!」
「戸村さんがうまかったからですよ。特に自分の見せ場からこっちの見せ場へ切り替える所作はさすがです。」
やはり浅井さんの友人である。相手に合わせに行くのがうまいのだろう。
「譜面も完璧でしたしアレンジもしっかりしててびっくりです。」
「やったあ。ほめられると嬉しいなあ。」
実際すごかったし喜んでいいと思う。
「鍵盤でやってたリズムのところもドラムが入るとまた違って最高でした。ところで,あの曲浅井さんとやったことあるんですか?ずいぶんスムーズにたたかれていたので。」
「へ?ううん。あいつが歌ってるのは聴いたことあったけど。」
え?
「だってドラムとボーカルだよ?しかも建成は楽器できないからさ。打楽器とアカペラだけであの曲はさすがに限界があるよ。」
「確かに浅井さんが楽器持っているのは見たことないですけど…ええと,例えば誰かにキーボードとかギターをお願いしたとかもないんですか?」
「ないない!別の曲で一回やってみようと思ったことあったんだけど『これは無理』って言われて結局おじゃんになったんだ。」
そんなことがあったのか…
「だから建成が君と演奏してるの見てびっくりしたんだよ。しかも君と2人ならまだしも3人いたからね。ぶっちゃけ大変じゃなかった?まとまらなかったでしょ?」
「たしかに初期はいろいろありましたけど,お2人のおかげもあって何とか乗り切った感じです。」
「とかいいつつ君の活躍がすごかったって建成言ってたよ。それで僕も気になってセッションをお願いしたわけだし。」
そういういきさつがあったのか。
「…期待に添えましたでしょうか?正直あのセッション,私も特殊なことをしたわけではないので…」
「うーん,判断するのは早いかな。ねえ,明日もやらない?」
「ええと,明日は別の人との約束があるので明後日以降はどうですか?」
「そうか,残念。じゃあ明後日と明々後日,2日連続にしていい?」
「いいですがどうして2日連続なんですか?」
「建成が言ってたんだ,君の演奏のすごさは何日か連続で演奏を聴くと如実にわかるって。」

…なるほど。浅井さんも食えない人である。

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